tas-net-2の日記

自動車整備、修理対応

万葉集:日本書紀:古事記:(6):20140730

万葉集:日本書紀:古事記:(6):20140730

 

法螺と戯言 : 北緯37.2度王権(3、飯豊)、小保方問題(NHKテレビ)

 
 
北緯37.2度王権(3、飯豊)
 前回に続き日本書紀が語る飯豊皇女の王宮である「於忍海角刺宮」を考察します。この六文字の前半部三文字は青海であり、且つヒスイを産する海(姫川)を指しているらしいことを前回書きました。
残る後半部の三文字です。2011年11月18日の記事で私は鉾衝神社について考察しました。「鉾」は下の図に見るようにいわば槍です。つまり「角」(つの)と同義です。
 
 
 
 
 

鉾衝―神炊館(8)

 

 
 
 
23:30 

by 瓢箪虻

 

飯豊(9、幾何学配置で思想を体現す)
 前回のブログ記事で私は
「上で得た二つの神社の位置関係設計に何がしかの「思想」が反映されているのか、どうか?残念ながら現時点ではわかりません。」
 と、書きました。しかし、このまま放置するにしのびなく、地図やら計算結果を眺めながらウダウダと考えていました。その経過を辿ってみます。それが、私の感動を最も印象的に皆様にお伝えすることになるであろうと思いました(下の図)。と、先ずは思わせぶりな書き出しです。
 
 
会津とは?
 会津と言う地名について古事記が以下を書いています:
%%%%%古事記
原文:
又此之御世。大毘古命者。遣高志道。其子建沼河別命者。遣東方十二道而。令和平其麻都漏波奴〈 自麻下五字以音。 〉人等。(中略)。 故大毘古命者。隨先命而。罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別。與其父大毘古共。往遇于相津。故其地謂相津也。 是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平。人民富榮。於是初令貢男弓端之調。女手末之調。 故稱其御世。謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世。作依網池。亦作輕之酒折池也。 天皇。御歳壹佰陸拾捌歳。御陵在山邊道勾之岡上也。
 
 
四道将軍派遣
 前回も書きましたが、所謂西暦645年の「乙巳の変」は、中大兄と中臣鎌足の合作であると日本書紀は書いています。私がこの「乙巳の変」に疑惑を抱いたきっかけは万葉集十五歌に付された「左注」です:
%%%%%万葉集十五歌
題詞((中大兄[近江宮御宇天皇]<三山歌>)反歌
原文渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比<紗>之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ
仮名わたつみの とよはたくもに いりひさし こよひのつくよ さやけくありこそ
左注右一首歌今案不似反歌也 但舊本以此歌載於反歌 故今猶載此次 亦紀曰 天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子
 
 
 
日本書紀が書く「四道将軍」(2)
 
 
四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。[1]

考古学上の成果[編集]

大彦命に関しては、埼玉県稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である[4]。このことから、四道将軍が創作された神話ではなく、実際に伝承された祖先伝説を元に構成されたことを示している。

崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(墳丘全長約242m、後円部直径約158m、後円部高さ約23m)と吉備津彦命陵墓参考地(大吉備津彦命墓)である中山茶臼山古墳(墳丘全長約120m、後円部直径約80m、後円部高さ約12m)はサイズがほぼ2対1の相似形であることが指摘されている[5]

 
 
 
 
四道将軍(3)
 祟神天皇が日本列島の完全支配を達成したと主張する説話が将軍の地方への派遣です。古事記は二人の将軍を東日本に派遣したと書きます。日本書紀は東日本に加えて丹後、吉備に四将軍を派遣したと書きます。
 この違いは、研究者・学者にとっては大きな違いではないのです。それは「記紀」への視点がかかわっています。「記紀」は異なる作者による「史書」であると考えるからです。一方私は「記」は「ドラフト」であり、「紀」は改訂・最終版と捕らえています。そのいくつかの論拠を前回書いてきました。この「記紀」に関する私の視点を検証するためにもう一つの説話を考察します。それは四道将軍の列島制覇に続く説話です:
%%%%%日本書紀巻(五)
 
四道将軍(4)
 箸墓古墳の築造年代は、シリウス星方位からは西暦620年から660年の間ごろと推定されます(2013年2月25日記事)。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51834814.html 
 
 
 
 なぜ、奈良政権を箱庭風に仕立て上げねばならなかったのか?「万葉集」の存在が大きかったと思います。万葉集の初期・歌群の舞台が九州であることを藤原不比等は熟知していたからです。その万葉集に登場する地名はすべて九州です。
 
 
 
四道将軍(5)
 藤原不比等とその一派がシナリオ(筋書き)を作り、肉付けをした古事記日本書紀を祟神天皇四道将軍派遣説話を典型事例として書いてきました。藤原不比等一派は倭国に起きた様々な出来事、倭国で時の為政者の治世・行為を多少事実をゆがませて倭国史書を編纂したのではありません。そうした事実と多少異なる権力者に都合のよい史書編纂は世界中のどこにでも見られることです。自民党が編纂する自民党史しかりです。共産党が編纂する共産党史が編纂時の党指導部の都合のよい記述で語られることはよく知られています。
 
 
四道将軍(6、再び会津
 古事記日本書紀祟神天皇による東国制覇を書きますが、それは、事実をさかさまに描き出していると私は考えています。福島県須賀川・長沼に観察される遺構配置(下の表一8行目、2013年8月13日記事)、茨城県八溝山-鹿島の直線配列(表一10,15,17行、2010年1月1日記事)、さらには埼玉県・行田稲荷山古墳―志木(朝霞,表一13行、2009年12月28日記事)にシリウス星信仰の痕跡が明瞭に確認されたからです。

 その痕跡が示すこれらの配置構築年代は四世紀後半から六世紀中半であることも判明しました(表1参照)。表1に見るように、この構築が南下していることから、シリウス星信仰集団が北から南に勢力範囲を拡大したであろうことが推測できるのです。
 
 
 

法螺と戯言 : 会津(7)

23:00 by 瓢箪虻

四将軍(会津、7)
 下図は会津と周辺の地図です。福島県北部に「山都」(ヤマト)、「耶麻郡」(ヤマ)、さらに西の新潟県に「豊栄」(トヨサカ)などがあることをかねてより気にしていました。そして、こうした地名の存在について、以下のように考えてきました:

(図:福島県北西部に残る「ヤマ」) 
 
 
 
会津(8)
 日本書紀巻七は、景行天皇とその跡を襲った政務天皇に関する事跡であることを冒頭に明記します。そしてそれぞれの天皇の和風諡号を付記します。景行天皇の和風諡号が隋書に記載された倭国王の名(字、あざ)と同じであることを前回書きました。岩波文庫日本書紀」の校注者である坂本太郎氏などもその事実を注で書き留めています(「日本書紀」(二)59頁)。しかし、こうした著名な古代史研究者は「タリ」が古代倭国の「尊称」のようなものと考え、それ以上の追求はしません。
 
 
景行天皇余談(3)
 古事記にせよ、日本書紀にせよ、その基本的なシナリオを構想するに当たっては、隠すべき史実、隠さないが一部にとどめる史実など、諸々の基本設計があったはずです。その設計に従ってまずはスケルトン(骨組み)の組み立てです。それが古事記です。古事記で構築された骨組みを見直し、それに肉付けした文書が日本書紀です。先代旧事本紀という古文書もありますが、その構成はほぼ上記シナリオに沿っています。その十巻「国造」を議論する際には、この文書を考えることにし、本ブログの現時点では議論を記紀に絞ります。
 
 
 
景行紀補足(二王)
 景行紀が問わずに語る二人の王、実は、記紀はもう一回二人の王を語っています。
 雄略天皇日本書紀編年では http://homepage1.nifty.com/kitabatake/tennouichiran.html 西暦紀元前456、~479年、本ブログ編年 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51960998.html ) 556~578年)治世下でそれを語っています。
 この説話は記紀両古書に登場することから、当初の筋書きで欠かせないことであったのでしょう。それを、ことのついでに書いておきます。まずは古事記からです:
%%%%%古事記より
原文:
又一時。天皇。登幸葛城山之時。百官人等。悉給著紅紐之青摺衣服。彼時。有其自所向之山尾。登山上人。既等天皇之鹵簿。亦其裝束之状。及人衆。相似不傾。爾天皇。望令問曰。於茲倭國。除吾亦無王。今誰人如此而行。即答曰之状亦。如天皇之命。 於是天皇。大忿而矢刺。百官人等。悉矢刺爾。其人等亦皆矢刺。故天皇。亦問曰。然告其名。爾各告名而彈矢。 於是答曰。吾先見問。故吾先爲名告。吾者。雖惡事而一言。雖善事而一言。言離之神。葛城之一言主大神者也。天皇。於是惶畏而白。恐我大神。有宇都志意美者。〈 自宇下五字以音。 〉不覺白而。大御刀。及弓矢始而。脱百官人等。所服衣服以。拜獻。 爾其一言主大神。手打受其捧物。

文意:岩波文庫古事記」(190頁)
 
 
雄略紀(2)
雄略天皇が、自らの姿形と酷似した神に向かって「自分はワカタケル」と名乗ったとの説話から、学者・研究者は二つの重大な史実が明らかになったと考えます。

(1)「ワカタケル」と刻銘された鉄剣が埼玉県稲荷山古墳から出土しました。これは、近畿に拠点を置く大和王朝がその支配域を北関東にまでおよぼしていたことの証である。
さらには、それと同様の鉄剣が熊本県江田船山古墳からも出土したことは、歴史家を大いに喜ばせました。雄略期には日本列島はほぼ単一の王朝に支配されていたとの確証を得たというわけです。

(2)しかもこの「ワカタケル」王が大陸の正史にも登場すると、研究者は書きます。岩波文庫日本書紀」(三)の校注者は以下を書きます(17頁):
%%%%%校注者
宋書、南斉書、梁書には倭国王武があり同一人と見られる。倭国王武は477年~502年の間に南朝に四回遣使。
%%%%%校注者

 日本書紀編年では雄略天皇の在位期間は西暦456~479とあり、おおむね時期があいます。学者・研究者はそれをもう一つの論拠として、「倭王武=雄略」は確定された事実と考えているようです。

 前回、この上記(1)の結論に重大な疑義を唱えた森博達氏のNHK歴史番組での発言を紹介しました。森氏は日本書紀解読において「革命」をもたらした著名な漢文研究者です。氏は、漢文における[漢字]使用方にとどまらず、その発音にまで研究を広げておられます。その成果に基づく指摘が以下です: