2010年04月14日21:11
2010年04月16日21:50
九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后詔大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。若百姓知之、有懈怠者乎。」則命四大夫、領百寮令守宮中。竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
於是、息長帶日賣命、於倭還上之時、因疑人心、一具喪船、御子載其喪船、先令言漏之「御子既崩。」如此上幸之時、香坂王・忍熊王聞而、思將待取、進出於斗賀野、爲宇氣比獦也。爾香坂王、騰坐歷木而是、大怒猪出、堀其歷木、卽咋食其香坂王。其弟忍熊王、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船將攻空船。爾自其喪船下軍相戰。
法螺と戯言 : 宇佐神宮(7、天武天皇にまつわる死の謎)、LHC(3)
2010年04月19日20:44
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/5/a/5a1e31d4.JPG
上表は、天武紀二十九巻の死亡記事です。最上行は亡くなられた方の位階です。また名前に続く数字は天武紀x年x月を意味します。例えば栗隈王(0506)は栗隈王が天武5年6月に亡くなられたということです。また、表中の*印は、亡くなられた方の位階が定かでないため、その方の想像される位階の範囲を示しています。
2010年04月21日19:51
法螺と戯言 : 宇佐神宮(持統天皇の吉野行幸)、LHC(4)
2010年04月23日19:06
宇佐神宮(7、持統天皇(2))
前回掲載した表で21回目の吉野幸についてまずは説明せねばなりません。日本書紀、持統紀の八年に次の記事があります。
《持統八年(六九四)四月戊午【五】》◆夏四月甲寅朔戊午。以浄大肆贈筑紫大宰率河内王。并賜賻物。
《持統八年(六九四)四月庚申【七】》◆庚申。幸吉野宮。
《持統八年(六九四)四月丙寅【十三】》◆丙寅。遣使者、祀広瀬大忌神与竜田風神。
《持統八年(六九四)四月丁亥【異本丁未。ともにこの月になし。】》◆丁亥。天皇至自吉野宮。
《持統八年(六九四)四月庚午【十七】》◆庚午。贈律師道光賻物。
この記事の下から二番目を見てください。4月7日(庚申 かねのえさる)に女帝は吉野へ御幸しました。そして、「同月の丁亥(ひのとい)に吉野の宮より至る」とあるのですが、暦によれば4月には「丁亥」を干支に持つ日はありません。4月は「甲寅」に始まり「壬午」で終わるからです。平安時代或いはそれ以降に日本書紀を調べた学者さんもこのことを奇異に感じたのでしょう。そこで、その学者さんは自分の解釈、つまり「丁亥」ではなく『丁未』と写本に書き込んだのでしょう。それが『異本』です。ところがその異本の「丁未」も四月にはないのです。
2010年04月26日20:36
2010年04月28日19:59
2010年04月30日21:04
2010年05月03日20:43
法螺と戯言 : 「蘇我氏はサカ族である」(栗本慎一郎著作より)
20120718
スカ(サカ)から蘇我へ(3)
大分長いことスカを書くことを休んでしまいました。「サカ(またはスカ)と蘇我」を取り上げる直接のきっかけは利根川であることを書きました(6月27日記事)。
先ずは中央アジアの昔に遡らねばなりません。このあたりについて要領よくしかも私のような素人向けに書かれた本があります。栗本慎一郎氏による「シリウスの都 飛鳥」(たちばな出版、2005年)です。この本は、先ずは渡辺豊和氏の仮説に着目し、私同様検証作業を行う経過が書かれています。残念ながら栗本氏がこの著書で引用する検証結果はかなり杜撰です。これは仕方ないことであって、私のような技術屋の知識とテクニックが検証には不可欠です。
経済人類学を専門とする栗本氏にはそれらはもっとも不得手であろうからです。しかし、その歴史を読み解く論理は、明快で私自身が行ってきた(これまでのブログ記事参照)検証作業に照らし合わせながら読むと歴史が見えてくる気がします。
20150112
サカ族
秋田の「なまはげ」伝説、つくばの「天狗」伝説などには「渡来人」の痕跡をうかがわせますが、この大江山もその例外ではないことをウイキペディアが書きます。大江山にまつわる鬼伝説も渡来族の存在を示唆しています。
そこで、この渡来人について少し書いておきたいと思います。
昨年11月に国会図書館で「古代ペルシア:碑文と文学」(伊藤義教著、岩波書店、1974)なる本を見つけました。限られた時間であったので、全てに目を通すことができませんでしたが、こんな記述があります:
「イラン語族はスキタイと呼ばれているが、ペルシア側ではサカと汎称していた」。2012年7月30日記事でウイキペディアの記載を紹介していますが、この記載の出典はどうやら伊藤義教氏の著作であったことを知りました。 このことはすでに本ブログ2012年7月18日付け本ブログでも「蘇我氏はサカ族である」(栗本慎一郎著作より)と題して書きました。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51800458.html
その際に用いた地図の原図と思しきものが、この伊藤氏による本の巻末にペルシャ周辺の地図として添付されています(国際言語社による[古ペルシャ語]山中元著、2008)の巻末にまったく同一の地図が引用無く添付されています。これは明らかに著作権に反していると考えています。せめて文献引用がなされるべきでしょう)。その分布を世界地図に書き写して見ました。
(図1: サカ族の分布)
2010年05月05日21:00
2010年05月12日21:51
2010年05月14日21:07
2010年05月17日20:27
2010年05月19日20:24
その総指揮を取ったのが藤原不比等です。「日本書紀の謎を解く」(森博達著、中公新書、1999)は、二十八、二十九巻は漢文を母国語としない日本人によって執筆されたと指摘しています。つまり、大掛かりな日本列島の歴史捏造にあっては、「外国人」の手によってはそれをなしえないからです。
2010年05月21日19:32
2010年05月24日21:47
どういうものか、宇佐神宮の関わりについて触れていないのです。前回引用した宇佐神宮のHPは、続日本紀からの転載です。とすれば、ウイキペディアは兎も角、何故東大寺はその由緒にそれを書かないのでしょうか?
2010年05月26日20:48
さて、私の傍らに「鬼の帝 聖武天皇」(関裕二著、三一書房、1998)があります。実は、宇佐神宮の謎の解明にこの本の示唆が誠に有益なのです。まずはこの本の指摘するポイントを次回紹介してみたいと思います。
鬼の帝 聖武天皇の謎 / 関裕二 <電子版> - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
内容説明
聖武天皇といえば、藤原不比等の孫であり、藤原氏に操られた「傀儡天皇」のイメージが強い。しかし、本書の著者の視点は異なる。聖武天皇は、歴史の敗者や闇の世界の人々(鬼)を取り込むことで、権力と対等に向かい合おうとした「鬼の帝」ではないかと推測する。また、日本の歴史の基層を築いたのは、藤原氏ではなく、聖武天皇その人にほかならないともいうのである。その一つの例が、天平12年10月26日、わずか400の兵をともに、忽然と平城京から姿を消し、伊賀、伊勢、美濃、不破、近江をめぐり、恭仁京、紫香楽京、難波京とわたり、平城京に遷都したのは天平17年5月。この足かけ5年にわたる「迷走」である。乱に対する恐怖からの逃走と捉える説もあるが、ある時から藤原氏による聖武天皇のコントロールが効かなくなっていることを考えると、この「迷走」の真意さえ謎なのである。気鋭の作家が聖武天皇の正体に迫る、古代史ファン垂涎の一冊。
目次
第1章 二つの顔を持った帝<br/>第2章 藤原の野望と蹉跌<br/>第3章 聖武天皇の実像<br/>第4章 鉄の女 光明皇后の本心<br/>第5章 鬼の帝 聖武天皇
2010年05月28日19:37
こうして、聖武天皇は、歴史上初めての藤原一族の血を受けた天皇となったのです。後に権勢を欲しいままにするする藤原一族にがんじがらめにされた天皇と歴史家は断じてきました。藤原一族の権勢の布石を敷いたのが、持統女帝であると、関氏は考察するのです。が、一方で関氏は、聖武天皇は、自らをがんじがらめにする藤原一族の言いなりになっていたとの通説に疑念を差し挟みます。その論拠の一つが「宇佐神宮」というわけです。
(つづく)
2010年05月31日21:56
2010年09月01日07:26
しかし、「八幡神とは、一体何者なのか?」との問いに明確に答えてくださる歴史家が実はいないのです。
私は万葉集の一巻、十五歌の解読からこの八幡神の実像に近づいたと考えています。
2009年7月19日の記事参照
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301975.html
その手がかりは、歌に読み込まれている「豊旗雲」でした。
わたつみの豊旗雲に入日射し今夜の月夜さやけかりけり (中大兄皇子)
2010年09月03日12:23
2010年09月13日22:19
長屋王の変(3)
長屋王は聖武天皇即位時の724年2月4日に左大臣に任ぜられました。「左大臣」、つまり天皇の左側に座して天皇を「左」(たすける)する立場です。人間、体の左側に心臓があります。従って、自らの左側には最も信頼できる人間を配します。
2010年09月15日20:54
前回、長屋王の鋭い指摘、つまり数年後に「皇后の母」となるべく、そのために呼称を変更するとの伏線を見抜き、その野望を挫いたのが長屋王であると書きました。藤原一族はその恨みを忘れることはなく、反逆の疑惑をでっちあげて自殺に追い込んだのです。
2010年09月17日20:58
聖武天皇の彷徨(1)
聖武天皇の千千(ちじ)に乱れる想いにもかかわらず、恨みを抱えて放逐された八幡一族からの「祟り除け」であったはずの長屋王は藤原一族の讒訴の前に729年(天平8年)自殺に追い込まれます。
そして、8年後の737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟が相次いで死にます。この年、天然痘が日本列島に大流行したのです。