tas-net-2の日記

自動車整備、修理対応

万葉集:日本書紀:古事記:(7):20141124

万葉集:日本書紀:古事記:(7):20141124

 

23:30 by 瓢箪虻

法螺と戯言 : 長野の地震、不比等雑感

 

藤原不比等雑感
 前回の記事について、ある読者から辛辣なコメントをいただきました:曰く「言いたいことがようわからん!」。私自身も、「こなれていない表現」であることを自覚しており、大変耳に痛というか、目に痛い思いです。
 
 本ブログで日本書紀をそして古事記をよみすすめて、何よりも強く感じるのがこれら史書を編纂する中心にいたと思われる藤原不比等が「倭国史を歪めている」事への強い怒りでした。その後1300年余に亘って、わが日本列島に生まれ死んでいった幾多の人たちは、列島に起きた様々な真実を「奪い取られた」のです。この罪は重かろう。とすれば、列島に起きた真実をこのいささか頼りない史書である[記紀]を注意深く読み解くことで以って明るみに出してやろうとの思いでした。

 

 

法螺と戯言 : 福島県・須賀川(2)、安倍氏の報道機関への要望

 

須賀川(2)
 前回、須賀川博物館の再訪を書きました。須賀川市在住で郷土史を調べておられるという方のお話をそこで聞けるかと楽しみにしていたのですが果たせませんでした。そこで、事前の計画に従って、レンタカを長沼まで走らせました。長沼は下の図に見るようにJR東北本線須賀川駅から西に15kmのところに在します。須賀川市が編纂した「長沼の歴史」によれば、「大昔、磐背国造・建弥依米命(たけよりめのみこと)」が、この地で大蛇梟師を退治した。そのころこの地には長い沼があった」。これが長沼という地名の由来であると書きます。

 私は、全国に多い「長」が付される地名について、その多くは「長い」ことに由来するのではないことを書きました。それは「塚」に由来するのです。「塚」は「ちょう」と「音」(おん)するからです。たとえば、龍ヶ崎市南部、そしてつくば市長峰という地名があります。つくば市のそこには現在の気象研所があります。そのすぐ南東は「大角豆」(ささぎ)という地です。「ささぎ」は「稜」です。つまり、つくば研究学園都市の南端は、古代、大きな墓があったのだろうと私は考えています。同様に、龍ヶ崎市のそこには、市で最大の古墳があります。
 という推論からして、「長沼」の「長」は「ながい」のではなく「塚」つまり墓であったろうと私は考えています。誰の墓か?それは「沼」つまり「ショウ」です。これは以前も書きましたが「高昌」(コシオウ、香々背男)の「ショウ、またはセオ」です。この地をかっての支配者の墓所と定め、そう読んだのは[当事者]とその近習ではありません。言うまでもなく後世(多分八世紀以後)の「支配者」です。これは、つくば、龍ヶ崎にあっても同様です。このことが、会津の「ヤマ」とも関係してきます。しかし、話を混乱させないため、ここではこれ以上論及しません。

 

 

 

法螺と戯言 : 須賀川(3、長沼城祉、日高見山)

 

 

法螺と戯言 : 須賀川(4、日高見)

須賀川(4、日高見(2))
 前回に続き、景行天皇紀です。日高見を考察するための前段です。まずは前回の二十七年紀を、四十年紀之前書きとしてみることにします。引用が長くなるので、分割して掲載します:

%%%%%(1)日本書紀・巻七
景行天皇二七年(丁酉九七)冬十月己酉(十三日)。遣日本武尊、令撃熊襲。(中略)
十二月、到於熊襲国。因以伺其消息及地形之嶮易。時熊襲有魁帥者。名取石鹿文。亦曰川上梟帥。悉集親族而欲宴。於是。日本武尊解髪作董女姿。以密伺川上梟帥之宴時。仍佩剣〓裏。入於川上梟帥之宴室。居女人之中。川上梟帥感其童女之容姿。則携手同席。挙坏令飲而戯弄。于時也更深人闌。川上梟帥且被酒。於是。日本武尊抽〓中之剣。刺川上梟帥之胸。未及之死。川上梟帥叩頭曰。且待之。吾有所言。時日本武尊留剣待之。

 

 

法螺と戯言 : 日高見国(5)

 

 

法螺と戯言 : 日高見国(6、私の妄想)須賀川(磐背国 1)
 ブログ記事を「公開」して、それを読み返すと「あっ、あれを書き忘れた、これを書き忘れた」と思うことがしばしばです。そこで、今回は、そのうちの幾つかを前回の補足として付け加えておきます。
まずは景行天皇の和風諡号です。それは「大足彦忍代別天皇」です。この先頭の「大」、私はこれを単なる尊称であろうと考えていました。隋書を眺めていて「フト」気づいたのは[大]は「王」の音をそのまま写し取ったのではなかろうかと。隋書は「倭「王」姓阿毎、字「多利思比孤」]と書いているのです。

 二番目の補足です。古事記野ドラフト版を日本書紀で改定する際、「倭」を「日本」に変えた理由が隋書の次の一説であることを書きました:
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
倭国王の物言いは無礼であると隋帝は不快感を露にしたというよく知られた史実です。私見は、「倭国王には隋帝に対して尊大」との認識はなかったと考えています。どういうことか?隋に使節を遣わした西暦7世紀初頭、倭国には東に「古志王」国(香々背男国)があったのです。いずれ書きますが大陸六世紀の史書「梁書・倭国条では「扶桑国」が登場します。渡辺豊和氏は、これぞ「古志王」国であると喝破します。一方、西には[倭国](もしかするとそれはタイ国)が君臨していたはずです。この東西二国は密接な関係があり、東の古志王国が西の国「倭」国への親書はまさに「日の出る国から日が没する国へ云々」で始まっていたのだと思います。したがって倭国から大陸の帝への親書も「日の出る国から日が没する国へ云々」で始まっていることには、なんら非礼は無いのです。それはまさに最大限の礼を尽くした表敬であったのだろうと思っています。

 

 

 

法螺と戯言 : 日本武尊の東征(終盤)、総選挙結果を考える

日本武尊の東征(終盤)
 前回、日本列島には二人の王のやり取りを書きました。東の王は福島に拠しており、西王は九州に拠していました。当然、近畿、とりわけ奈良盆地内に拠して列島の東西を「キョキョロ」窺っている勢力はどうなってるのか?との疑問が生じます。それについての考察をこれからしたいと思います。

 

 

 

法螺と戯言 : 信濃(科)国の前に丹後に寄り道

信濃(科)国の前に丹後に寄り道

 

 

法螺と戯言 : 日出る国、日入る国、そして中つ国(1)

倭国大乱ごの日本列島(1)

 

 さて、本ブログでの私のもう一つの独創的着眼が「中ッ国」です。文字通り東西二つの国の真ん中にある。だから「中津国」なのです。倭国史編纂の構想を得た藤原不比等は、古事記日本書紀が語る「(葦原)中つ国」という表記をそのまま用いているのです。それ自体が事の真相を直に明るみに出していると考える事ができます。そして、不比等古事記日本書紀に登場する最初の神である「天御中主神」という神をつくりあげました。。
 且つ、さらに付け加えるならば、七世紀の半ばに日本列島の権力を簒奪した二人の「中でもあります。本ブログ2013年6月28日記事「古代史編年(30、two「中」s' 「仲」)、文化が国を護る(雑感)]を参照してください。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51852869.html 

 

 

法螺と戯言 : 中つ国(2)

中つ国(2)
(図1:七世紀半ばの日本列島勢力分布)

 

法螺と戯言 : 「中つ国」が仕掛けた戦争(3)

「中つ国」が仕掛けた戦争(3)
 中つ国が「高・サカ」一族と領有・支配権を争った地域、つまり東西国(「日出」国、「日入国」のこと)と勢力圏が接するあるいは重なる場所のひとつが丹波、とりわけ丹後であったことが前回掲載した図1からわかります。

 

 

 

法螺と戯言 : 中つ国が仕掛けた戦争(4、渡来人)

 

法螺と戯言 : 中つ国(5)元伊勢皇大宮

中つ国(5)元伊勢皇大宮

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 中つ国(8、宮津の「宮」はいずこ?)

中つ国(8、宮津の「宮」はいずこ?)
 「丹後聖線構築」後の事態の推移をざっと概観しておきます。詳細はいずれ「中ツ国」の策謀を考察するなかで書きます。
 元伊勢皇大神宮の所在地に、何がしかの必要があって、サカ・高一族は第二の拠点を築いたのが五世紀半ばです。前回付した表に見るように、この時代、倭国王がが大陸の宋皇帝に朝貢しています。朝貢の際、倭国から派遣された使節倭国王の名が「斎王」であると陳述しています。その子が「興」王です。本ブログでも、「サカ・高」連合対による倭国統治を書いてきました。この「高」こそ「興王」です。漢字表記が違うのではないか?との疑問が読者の方から呈されるやもそれません。倭国使節は宋の皇帝に文書を差し出すわけではありません。皇帝の側近からの質問に答え、それを傍らの書記官が記憶するのです。その際、漢字を使わない倭国に「どういう漢字か?」なぞと問うはずはありません。書記官は耳にした「音」を書き留めるのみです。それは邪馬台国調査結果を記した魏志倭人伝と同様です。

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 中つ国の反抗(9、斎宮竹野神社―杉末神社),人質問題

 

中つ国の反抗(9、斎宮竹野神社―杉末神社)
杉末神社の背景を探るべく再度丹後半島を見渡して見ました。気が付くのは丹後半島の北端にある斎宮竹野神社です。社殿の方位は図1に見るように明瞭なシリウス方位です。
(図1:斎宮竹野神社境内の社殿方位に注目)

 

 

 

 

法螺と戯言 : 中つ国(10、籠・真名井神社と「六芒星」)

中つ国(10、籠・真名井神社と「六芒星」)
 まずは籠神社についてのウィキの説明を見ることにします。ウイキでは、籠神社がその北東にある真名井神社にかかわりがあると書かれています。そこで、この真名井神社を合わせて、その場所を下の図で示します:

 

 

法螺と戯言 : 中つ国(11、久慈力氏の説、1)

中つ国(10、丹後の「六芒星」)
 ウイキによれば、この図形がユダヤを表すようになったのは十七世紀ごろと書きます。とするならば、日本列島の幾つかの寺、神社に見られるこの記号はユダヤとは関係ないように思えます。そこで、ウイキの英語版を見ることにします。長いので抜粋のみを以下に転載します:

 

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/3/a/3aac001d.jpg

 

 

 

法螺と戯言 : 中津国(12、久慈氏が語る渡来人の痕跡、赤穂の大避神社)

中津国(12、久慈氏が語る渡来人の痕跡、赤穂の大避神社)
 前回に引き続き久慈力氏の著書の目次頁を紹介します:
(図2:「シルクロード渡来人が建国した日本」より、目次頁)