万葉集:日本書紀:古事記:(24):20100217:香香背男
法螺と戯言 : 万葉集関連話(二十二、書紀のみが語る悪神),ツタンカーメン
2010年02月17日20:17
岩波文庫「日本書紀(一)」120頁がその一つで、その原文は:
(1)〈一云。二神遂誅邪神及草・木・石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。
もう一つは136頁です。その原文は:
(2)一書曰。天神遣経津主神。武甕槌神、使平定葦原中国。時二神曰。天有悪神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。
法螺と戯言 : 万葉集関連話(二十三、宗教破壊)、時事ネタ(ハイチ地震 −4−)
2010年02月19日17:52
開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,[12]號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌,後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。內官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼一百二十人,猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼,如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如屨形,漆其上,繫之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂髮於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
[12]
多利思比孤 「比」原作「北」,據北史倭國傳、通典一八五、通鑑大業四年改。下同。
法螺と戯言 : 万葉集関連話(二十四、雞彌(きみ)=吉備(きび)?、香椎宮)、小沢問題、三宝会
2010年02月22日18:12
万葉集関連話(二十四、雞彌(きみ)=吉備(きび)?、香椎宮)
古事記の冒頭の記事の続きです。三柱の神々が成ったのが「高天原」です。「高」、「天」が露(あらわ)に文字として使われています。また、天香具山も、そもそもは「天香香山」であり、「天高高山」です。八世紀に新しい「神」を拵えあげる際に、放逐した神々の鎮魂、そして、その神々を敬慕する人々の懐柔策ではなかったでしょうか。
もう一つ気になるのが、倭の使節が隋皇帝に語った「號阿輩雞彌」です。倭の使節がどのように説明したのかは定かでありませんが、隋側の記録者は、三番目に現れた名前らしきものを「号」と解します。「阿輩」は『あへい』又は「あはい」と音するのでしょうか。私はこの音の響きからゾロアスタ教の主神「アフラ・マズダ」の「アフラ」を連想しています。つぎに「雞彌」は、漢和辞典(学研「漢和大字典」藤堂明保編、学習研究社、1990)に従うなら「けいみ」又は「けいび」と音することになります。「けいび」が「きび」(吉備)なのではと思いついたのですが、今のところ、「アフラ」も含めて確証はありません。
法螺と戯言 : 万葉集関連話(二十五、神功皇后=上毛野君形名の猛妻?、宇美八幡宮),Is the Diary of Anne Frank Genuine?
2010年02月24日18:27
法螺と戯言 : 万葉集関連話二十六(地震予知と宗像大社)、八ツ場ダム談合にからむ自民党
2010年02月26日18:49
法螺と戯言 : 万葉集関連話(二十七、腰巻山と風浪宮)、CERNによるブラック・ホール生成
2010年03月01日23:34
2010年03月03日21:35
法螺と戯言 : 万葉集関連話二十九(竹原古墳=景行天皇),チリ地震津波は何故大きくなかった?
2010年03月05日19:53
高来
20090409>20080405に訂正
法螺と戯言 : 万葉集関連話三十(宇佐神宮、その一),LHCによるブラックホール生成裁判(2)
2010年03月08日21:05
http://www.usajinguu.com/wp-content/themes/usajinguu/images/guide/map.png
2010年03月12日19:57
http://oitamt.nyanko.org/mapkomekami1.jpg
佐田京石
太古の祭祀場か? 鳥居の原形か? 埋納経の標石か? 定説は未だありません。
通路を登って左側の柵内は、マウンド中央の石柱から半円形を描くように石柱が配された環状列石と推測されます。
また、右側の柵内のドルメン(支石墓)と思われる巨石があります。石柱の表面には、ペトログラフ(岩刻文字)の存在が指摘されています。背後にある山は、米神山(標高四七五m)と呼ばれ、山頂部にも環状列石(高さ五〇cm程度の石)があります。また、ここから宇佐方面に行った地点右側の水田中に、米神山側に向いた立石があり、その上に小さな扁平石をのせたものが立っています。地元では こしき石と呼ばれ、蓋石を取り除くと暴風になると伝え暴風石とも呼ばれています。
この様に山の名やこしき石等、米に係る名が多くありますので弥生時代頃のものとも思われますが、定かではありません。
安心院町教育委員会
※「京石登山口」の看板より
2010年03月15日20:17
2010年03月17日23:24
「二礼二拍手一礼」の作法は
出雲神社に参拝したとき、普通の神社では2礼2拍1礼だが、ここ出雲神社と... - Yahoo!知恵袋
拍手は、「魏誌倭人伝」にもかかれ、古く
倭人の風習とされています。また「続日本紀」にも称徳天皇神護景雲元年、八月八日の条に僧侶の拍手が出てくおり、『手を拍(うち)て歓喜すること一に俗人に同じ』と出ています。そもそも饗宴をうたげと呼ぶのは、「拍(うち)上げ」のつづまったもので、列座のものがいっせいに拍手をするからだそうです。「貞観儀式」の践祚大嘗祭・辰の日の条に「物を献ずるに、手を拍つこと四段、段別八度、所謂、八開手(やひらで)なり」とあります。つまり八度拍つのを正式とし、伊勢神宮には今も残るそうです。 平凡社ライブラリー「神道の成立」高取正男の全くの受け売りでした。 以下は私見です。 物事を略す時、八→四、四→二と半分になり易い。出雲大社の高さもこの例でしょう。拍手(はくしゅ)が誤記されて柏手(かしわで)になり、本来八度打つものが、略されて四度、更に略され二度になったのでしょう。 四=死と云うのは、井沢元彦さんが「週刊ポスト」に書いた「逆説の日本史」で有名になりましたが、私はまちがいだと思ってます。 何かの本に、今通常である『「二礼二拍手一礼」の作法は、明治時代に確立された』と書いたのを見ました。戦後すぐだったか?定かでは有りません。いずれにしても、現在の作法は、古来のものと違うのでしょう。相撲取りが土俵の上で、仕切りのときに打つ拍手が、古来のものに近いのでは?と思ってます。 だそうです。
2010年03月19日21:24
2010年04月12日19:22