法螺と戯言 : 笹井氏記者会見(2)、万葉集二歌(補足・続)
万葉集二歌補足
万葉集一歌と二歌をつなぐ鍵が「山跡国」、「八間跡国」つまり「跡」であることを以前書きました。「山」と「八間」はどちらも「ヤマ」ですが、この使い分けは、歌の詠み手の遊び心でしょうか?私は、二歌を詠む時点で「ヤマ」の「ヤ」の意味を詠み手が知ったということだろうと考えています。二歌を詠んだ頃、渡来族は九州に住む現地人の数の勘定法を知った、つまりそれが数字の「8」であったことを知ったのです。
2014年04月21日23:00 by 瓢箪虻
万葉集三~十二歌の背景考察
前回の話の続きを書く前に、読者から頂いた指摘について若干のコメントをしておきます。それは、倭国古代史の起源を遠く中央アジア、中近東に求める説です。とりわけ「失われた第十支族」に求める議論は一部のマニアックな在野の研究者をひきつけているようです。この主張によれば、この一部の支族が日本列島に渡来したとして「日ュ同祖」論などが一部のマニアックな人たちによって熱っぽく語られています。鹿島昇氏、久慈力氏、そして小林恵子氏などもそうした方々です。
法螺と戯言 : 万葉集に磐井の乱の痕跡を探す, Y染色体の運命や如何に!
万葉集に磐井の乱の痕跡を探す
壬申の乱から説き起こして、邪馬台国の謎にたどり着いた一連の本ブログ記事作成は、丁度一年ほど前の今頃からでした。それは、昨年八月のクライマックスを経て西都原古墳の考察まで一気に駆け抜けた思いでした。それが可能であったのは、既にその筋書きが昨年の一月ごろに私の内部でほぼ定まっていたからでした。読んでくださる方にこの熱き思いを伝えようかと工夫することが楽しかった時期でも有りました。
さて、現在説き進めているのは、七世紀に倭国が体験した三つの内戦です:
(1)磐井の乱;
(2)神仏戦争; そして
(3)壬申の乱
法螺と戯言 : 七世紀の倭国内戦(2),Y染色体の運命や如何に!(2)
七世紀の倭国内戦(2)
万葉集初期歌群が七世紀の三つの国内戦争を詠っているとの仮説を検討しています。三つの国内戦争:
一番目の「磐井の乱」の舞台は日本書紀の記述から現在の熊本を含む九州北半分であった。と、推定できます;
二番目の国内戦争は「神仏戦争」で、その舞台は現在の近畿地方です(2013年2月1日記事とその前後)。そして
三番目は壬申の乱で、その舞台は再び熊本を含む九州北半分の地域であったと考えています。日本書紀では、これの舞台を近畿地方に設定して描いています。しかし、それは藤原不比等による捏造であったと考えます(2013年7月17日前後の記事)。
万葉集初期歌の舞台は九州北半部
読んでくださっている何人かの方々から「難しい」、「意味不明」などのご指摘がありました。最近の二回はそれへの弁明を書きました。何故、私が万葉集初期歌群に「しがみついているのか?」その理由をご理解いただけたのではなかろうかと思っています。
現在、この初期歌群の中で、二歌~十二歌は磐井の乱を詠っているのではなかろうかとの仮説の検証をしています。既に4月28日の記事で、二歌が詠われた舞台が九州は佐賀県「天山」とその周辺であると書きました。「現代ペルシア語」義から類推して「天山」を、北九州に拠した渡来族は聖なる山と位置づけたと考えています。それが「取與呂布』(トリヨロウ)です。
万葉集初期歌の地名考
5月7日以前、数回にわたって万葉集二歌の舞台が九州北半分域であることを論じてきました。私の意図は、これら万葉集初期歌群、とりわけ二~十二歌の舞台が九州であることを主として歌に登場する地名から論証することでした。七歌から十二歌については、九州に拠した一族の戦闘に際しての行軍を唄っている事が明らかになったからです。これについては2009年9月4日の記事で詳論しました(http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301994.html)。
その際の手がかりが地名です。万葉集初期歌の殆どの歌には、明瞭に土地の名が読み込まれていることが、わかりました。
法螺と戯言 : 歴史叙事詩としての万葉集初期歌群,研究監視機関(nature誌)
歴史叙事詩としての万葉集初期歌群
後日、詳しく再度の考察をしますが、私は「磐井の乱」は七世紀に起きたと考えています。日本書紀の編年とは全く異なります。そして、この「乱」は万葉集で叙事されていると思っています。その考察をこのところのブログ記事で展開しています。
そのためには、先ずは場所の特定をせねばなりません。万葉集二歌の舞台が現在の佐賀県中央部から福岡県西部であろう事をこれまで書いてきました。しかも時の大王は天乃香具山(現在の天山)で祈りをささげています。その際、美しく豊穣な邪馬国の跡をしっかりと継承する決意を歌に込めていると私は捉えています。
しかし、一般に学者さんが万葉集を語るときには、歌群の分類から出発します。つまり一巻は「雑歌」、二巻は「相聞歌」、三巻は「比喩」、「挽歌」と言う具合です。私は、万葉集初期歌群は「叙事詩」であり、そもそもは時系列に並んでいたと思っています。したがって、そこから倭国の歴史が読み取れる構造をしていたのです。
しかし、倭国の歴史に特定の思想を持ち込んだのが藤原不比等です。それは、万葉集が描き出す真の倭国史とは異なっていた。そこで、誰かに命じて時系列に並んでいた「詩」をばらばらにしてしまったのです。それが上に言う「雑歌」云々です。
何故三歌は磐井の乱?
万葉集三歌・四歌が描く情景
思えば本ブログの「売り」は古代史論議です。所が前回の古代史記事は5月28日ですから随分と長く休んでしまいました。私の議論の是非はともかく、面白がってくださる方々には大分長くお待たせしてしまいました。「考察」再開です。
本ブログで私が設定している仮説は
1.「万葉集初期歌を「叙情」と言う性格で特徴付けるのは誤りである。そうではなく、それは「叙事」歌であると」言うものです。したがって、
2.「倭国古代に起きた大事件を叙事した歌があるに違いない」
というものです。
万葉集三歌・四歌が描く情景(2)
さて、常陸国(現在の茨城県)の常陸国三古社-八溝山・配列・構築した一族が九州の地に足を踏み入れ、万葉集一・二歌を詠った一族であろうとの仮説にはしかるべき論拠があります。それは、渡辺豊和氏が自著「扶桑国王・蘇我一族の真実」で繰り返し強調するように、この一族は、アジア大陸東北部から沿海州あるいはさらにその北方の間宮海峡を渡海、樺太・北海道を経て、岩瀬国(現在の福島県)、常陸の国に南下し達したからです。この議論は既に詳細を本ブログで書いていますが、機会を見て再考察します。
法螺と戯言 : 万葉集三・四歌の風景(福島県中通に残る痕跡)(2)
万葉集三・四歌の風景(福島県中通に残る痕跡)
下の図は、前々回掲載した図の再掲です(7月16日)。この図には、須賀川市西部の顕著な山5つと、9つの神社、墳墓などが図示されています。これら五山と九つの築造物を俯瞰すると、その幾つかに五本の線状の配列が見えてきます。そこでこの線状配列の方向を先ずは計算して見ます( 2011年11月30日記事の再掲)。そのためには、これら五山、九築造物の位置を知らねばなりません。位置を得るために夫々の緯度・経度を、google mapで読み取ります。PCはありがたいもので、昔であれば、そうした作業は地図を前にして目で読み取っていました。
さて、そのうえで球面三角法という計算法で、方位、距離などを計算します。これもSCILABという無料の科学計算用ソフトウエアを用いると、容易にそのためのプログラムを作成できます。
天栄山の不思議
先ずは前回記事の若干の補足です。
紀元二世紀末に、拝火教を奉ずる一族が福島県中通に留まり、永倉神社そして白河鹿島神社に陣屋を築いたらしいことを前回書きました。その推論を裏付けるのがこれらの神社の築造物配置、参道からうかがい知ることができます(下図)。
天栄山の不思議(2)
同じ緯度線状に二つの青海があることを前回書きました。一つは新潟県日本海に面した町、もうひとつは中国内陸深い湖です。そしてどちらも天栄山とおなじ地理的特性を持っています。つまり夏至日に当たって、日没方位が厳密に西30度北です。この二つが偶然とは思えない。更には、倭国の使節が大陸へ出かけて、あの湖に「青海」なる名前を付したなぞはそれこそ荒唐無稽といわれても仕方が無い。これは、同考えても大陸の影響、もっと露に書くなら青海湖周辺に居した一族は日本列島に渡来氏、新潟県のあの地に「マーキング」したと思うことが合理的です。
ウイキペディアによる中国の奥深い西方にある「青海湖」を調べる前に、もう少し我が日本列島での様子を書いておきます。
日本書紀(巻十二)に興味深い記事があるのです:
履中天皇元年(庚子四〇〇)秋七月己酉朔壬子(四日)。立葦田宿禰之女黒媛為皇妃。妃生磐坂市辺押羽皇子。御馬皇子。青海皇女。〈 一日、飯豊皇女。 〉
文意:西暦400年(藤原不比等の編年による)、秋7月4日。葦田宿禰(あしだのすくね)の娘である黒媛(くろひめ)を皇妃とする。妃は磐坂市辺押羽皇子、御馬皇子、青海皇女を産む。青海皇女は一説では飯豊皇女と言う。
2014年07月28日23:30 by 瓢箪虻
北緯37.2度王権(3、飯豊)
そもそも本ブログでの現今の考察対象は磐井の乱です。私はこの乱が万葉集初期歌群で叙事されているはずと考えています。それなのに、何故、飯豊の話なのか?懸命なる読者諸兄に於かれてはとうにお見通しと思います。現在考察している天栄山は、岩瀬郡にあります。この「岩瀬」(郡)が、「先代旧事本紀」十巻「国造本紀」に挙げられている数多の[国]の一つである「磐背国」に由来すると考えるからです。
磐井の乱の「磐」、つまりこの乱の主人公は、現在の福島県浜通りの「いわき(磐城)」、そして中通の「磐瀬」(郡)の「イワ(磐、又は岩)」にその出自を持つのではないか。磐井の乱で「ヤマト政権」が討伐対象とした一族の出自がここ福島県中通りにあったのではないか。との問題設定です。
そして、この乱を特徴付けるもう一つの面、それは「磐瀬」の「磐」も「背」もどちらもアイヌ語であることです。そのことも後日検討します。
磐瀬国(福島県中通)に渡来し、やがて常陸の国に移動した一族が東北日本から九州に移動した事を推察させる記録を以前本ブログで書きました。2012年8月17日の記事
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51805018.html
です。万葉集巻二・85-90歌です。この歌で登場する黒髪の女性は岩瀬(磐背国、現在の福島県)に居たのでしょう。移動する一族の領袖がやがては故地であるこの地に滞在する彼女の元に戻ることを待ちわびて詠ったと思っています。