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万葉集:日本書紀:古事記:(31):20130102:継体天皇(五)

 

 

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継体天皇(五)、暗黒物質(米国科学雑誌、2012年11月27日号)

 

 

継体王朝(5)
西暦607年、倭国は二回目の遣隋使を隋国に派遣しました。このときの隋書の文書を先ずは
再度見ることにします列伝第四十六 東夷 - 高麗・百済新羅・靺鞨・琉求・倭国
このとき倭国が隋に送った使節が隋皇帝に送った挨拶は良く知られています:
%%%%%隋書引用開始
 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

%%%%%隋書引用終わり

 

 

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「珍王」末裔に遭遇!、数学を好きになる(米国科学誌より)

 

「イナ」はアイヌ語で豊作を祈願する「おまじない」です。いずれこのことを書きます(今日も書きたいことが沢山あるので)。「稲」(いね)の由来です。この龍ヶ崎市には狐を祀る「女化神社」(おなばけ)があります。何故、信太が狐なのか?いまだ解明をしておりません。

+++++継体天皇(六)
 前回、隋国への使節倭国に帰国した翌年、今度は隋国が倭国に調査団を送ったことを、隋書を引用して書きました。彼らは、筑紫を視察した後、そこから当方にある「秦王国」を訪ねたと書き、そこが大陸「中国」(当時は「中国」という呼称カは無いけれども便宜上アジア大陸東端の国)と変らなかったと隋皇帝に報告しているのです。古田武彦氏をはじめ多くの学者さんがこの国を地理的に特定することを試みます。大多数は、それが現在の大分県であろうと推論します。

 

 

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「珍王」末裔に遭遇(2)、”完璧”原子炉(1)”(nature 2012.12 5号)

 

継体天皇(七)
 宋書倭国伝」が書く「珍」王の末裔に隋書倭国伝の中で出会ったことを書きました。「秦」の発音が「qin」であらわされ, それは日本風には「チン」であることがわかったからです。実際、こうした発音のラテン語表記がミャンマでは残っており、そこでは「チ」を「kyi」と表記することをその理由に挙げました。ミャンマ国は、現在の中国の西に位置しますが、それは、実は四世紀末に存在した「西秦」のすぐ南でもあります。ミャンマ国の風習が北アジアの影響を残しています。

 

 

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磐井の乱(1),nature 完璧原子炉(2)2012.12.5 号記事転載

 

磐井の乱(1)
 「秦」王が、宋書倭国伝が書く「珍」王であろうと書いてきました。そして、其の出自は四世紀末に中国北西部に起こった鮮卑由来の「西秦」であろうと思っています。五胡十六国の混乱時に強大な勢力に追われた「西秦」の一部が北魏の北縁を迂回し、朝鮮半島を経て、敦賀辺りに辿り着き、現在の京都に一部がとどまり、他の一部が奈良盆地奥深くに住み着いた。これが私が想像するシナリオです。
匈奴の「現地人支配」の「ノウハウ」を受け継いでおり、五世紀の始めに、いつの間にか、この地で「王」の地位に着いた。それから200年近くが経ち、隋国からの調査団を迎えることとなった。どのような話し合いがあったのか?結論は、九州の王を攻めて自らの支配下に置くというものであった。その際、隋は援助を惜しまないことを約束したに違いありません。日本書紀で言う継体天皇の即位年は「編年二倍則」(既述)によって589年頃ですから、継体二十一年は610年ごろとなります。610年頃の隋は、高句麗経略に忙しくなる時期です。したがって、実質的な支援は無く、むしろ、日本列島の側からの隋支援が求まられたとも思えます。そうした事情が日本書紀から窺えます。
%%%%%日本書紀巻十七参照・はじめ

 

 

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磐井の乱(2)、完璧な原子炉(3、nature 12.21.2012号)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)は、527年継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。

 

 

なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。

 

 

 

 

 西の王との戦闘に決着がつき(多分勝敗の決着がついたのではなく、何がしかの妥協が成立したのでしょう)、以降、二王のうち、奈良盆地に拠する東の王は、大陸の権力に一層、好意的になったと思っています。そして、これが、日本書紀での「隋関与」隠蔽の理由だと思います。この事件が、50年後の663年の白村江海戦の伏線となったのです。つまり唐・新羅連合軍は、奈良盆地に拠した東の王とも通じて、百済と連合して抗う九州政権を殲滅したのだろうと思っています。

 

 

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河内王朝(大仙陵考(1))、チャンバラ小説考

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/河内王朝

 

 

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大仙陵考(2),科学と「創世記」信仰

 

仁徳天皇の方位は北から時計回りにほぼ30度(時計回りに測定、前方方位では210度)と測定できます。この角度は一体何であるのか?シリウス星方位であれば、前回も載せた表から建造年代を推定できますが、それができません。
一可能性な説明が前方後円墳の前方部の上辺から見えてきます。墳全体が30度ということは、上辺の方位は、300度、つまり西から30度(時計回りに)北です。ところで、仁徳天皇陵が位置する場所での日没方向を夏至の日に計算すると:
>> sun_dir (各緯度での日没方向を求めるプログラム)
sun altitude(23.5 summer solstice)=>23.5 (夏至日での太陽と地球赤道面とのなす角度)
latitude(200 for annual change)=>34.56 (仁徳天皇陵の緯度)
lat=34.56,dir=-61.0404 (298.96度)
 299度と300度ですから、ほぼ同一です。つまり仁徳天皇陵の建造設計では、シリウス星方位ではなく、夏至日の日没方位(冬至日の日の出方位でもある)に合わせて設計されたことが分かります。「讃」王の墳墓を「ササギ」と呼ぶに至った経緯を12月17日の記事「46回総選挙に思う、倭の五王(23、讃王の墳墓が「ササギ」)」で書きました。
 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51824132.html
 そこには明らかに「サカ」族、つまり「シリウス」星信仰が影響を与えていることを書きました。にも拘らず、墳墓を築造する際にそれを考慮しなかったのか?現時点で私が想像できる理由は、以下です:
 「讃]王は「珍」王の兄ですから当然匈奴の系譜です。そして其の一族が始めて日本列島に渡来し、色々と紆余曲折を経て、現在の近畿地区に支配権を確立した。匈奴族の統治方法は力で原住民を圧するやり方ではない。むしろ散在する現地有力部族との融和・調整をはかりつつ自己の影響力を増してゆくやり方であった。とすれば、讃王の死去に際して「讃」王の信仰観を押し付けた墳墓の構築は、政治的に、民衆の意向掌握という視点からもありえなかった。かくして当地で支配的であった太陽信仰にのっとった築造が選択された。

 

 

 

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大仙陵考(3), 世紀末論考(1、スーパ火山)

 

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「砂川判決」、大仙陵考(3)

 

 

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大仙陵と応神陵、人類の危機(2、菌類起源)

 

 

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神仏戦争(1)、三上氏が思う小沢事件

 

 

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神仏戦争(2),人類絶滅の脅威(3、宇宙起源、nature誌)

 

 

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神仏戦争(3、「三宝」),人類絶滅シナリオ(4、大津波)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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TPP(夕刊ゲンダイ紙より転載記事)、箸墓古墳年代考(5、アサカ聖方位)

 

 

 

箸墓古墳年代考(5、アサカ聖方位)
 これまでもしばしば、書いてきましたが、歴代天皇の陵については定説が無く、宮内庁が仮に「比定」(天皇と墳墓を対応させること)しています。概ねその比定作業では、日本書紀古事記での記事がその根拠になっています。各天皇紀の最後に、天皇崩御の後、遺骸が埋葬される場所を記述しているからです。しかし、これとても、藤原不比等の指示のもとで書かれたはずです。したがって、今回の記事で、お二人の天皇の墳墓を検討しますが、すべて仮の「大王」野墳墓であることが前提です。しかし、名無しでは記事を書く上で不便ですので、通説言われている天皇のお名前で議論を進めています。
そこで、今回は「アサカ聖方位」線上に出現する五つの歴史遺構の中で二番目に古いと思われる神功皇后墳墓とされる場所を見ることにします。ウイキペディアは次のように書きます:

 

 

 

 

 

 

 

 

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箸墓古墳年代考(9,「シリウス暦」)、核廃棄物処理(2)

 

 

 

 

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箸墓古墳年代考(14、炭素年代2),数学家フィボナッチ(2米科学誌)

 

 

 

 

f:id:TAS-net:20211105134412p:plain

 

 

 

 

 

 

 

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箸墓古墳年代考(14、炭素決定3),フィボナッチの業績(3)

 

 

 

 

 

 

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古代編年・私見〔4、E期、狂心の渠(9)〕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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古代史編年・私見(27、大津皇子謀反と賜死(2))

 

 

 

 

 

 

 

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古代史編年(34、万葉集二十九歌(1))

 

 古代史編年(34、万葉集二十九歌(1))
大津は壬申の乱の舞台です。そして持統女帝が天武天皇との間に生した草壁皇子の生誕地です。誰もが、大津は琵琶湖畔であると考えています。私のブログで大津は熊本であると繰り返し書いてきました。今回はその議論にトドメというわけです。それが、万葉集二十九歌です。
%%%%%万葉集一巻二十九歌
題詞 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
原文
第一文節: 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 阿礼座師 神之<盡> 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎
第二文節: 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而 何方 御念食可
第三文節: 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮
第四文節: 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞
第五文節: 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 百礒城之 大宮處 見者悲<毛>
(校本が異なると、用いられる字も異なることがあります。私の考えで、最適と思う表現が上です。重要と私が考える表現にはゴチックを用いています。又、文節は勿論原文にはありません。私の解釈で、分けました【後述】)

 

 

 

 

 

 

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高市皇子の死(1)

 

 

(4)後皇子尊の死:
天武死後3603日目の記事です。「持統十年(六九六)七月庚戌【十日】後皇子尊薨」
後皇子尊という方が、高市皇子であることを書紀は明示しません。名前の後に「尊」が付せられる人物、それは後に天皇に叙せられる方に限ります(毛長姫尊、後の神功皇后の事例もありますが)。その表記も「名前」・皇子尊という具合に、必ず名前が明記されるのです。「後」という名の皇子は日本書紀には登場しません。
そこで、学者さんがたは、これを以下のように読み解いて来ました:高市皇子は死去の六年前、690年に草壁皇子の後を襲って、「太政大臣」に任ぜられた。同年10月29日に部下を伴って建設途上にある「藤原京」を視察している。以後四回ほど書紀に登場し、それらはいずれも加増、昇進関連である。これらを総合すると、高市皇子が、その死去直前まで順調に地位を高めてきており、持統天皇の後継者と目されていた。それが「尊」である。

 

 

 

 作礼山の北北西、唐津湾近くに鏡山があります。自然の地形であり、人口建造物ではないので、二つの山の位置関係は、厳密にシリウス方位を与えません。しかし、これに主山である天山(香具山)を加えた三山は、往時、崇敬されていたのだろうと思います。因みに位置関係の計算を付しておきます:
degree=[130.065940 33.356977]
msg =130 3 57 33 21 25 (作礼山の経度、緯度)
degree=[130.023025 33.4296813]
msg = 130 1 22 33 25 46 (鏡山の経度、緯度)
lon(d=200 stop,m,s) lat(...) of epi=>[130 3 57 33 21 25]
lon(d=200,next,m,s) lat(...)of sta=>[130 1 22 33 25 46]
(2) d=8.9985(km),a=333.6383,b= 153.6146 (鏡山から見た作礼山への距離、(一つ置いて)、方位)

 

 

 

 

 

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NHK・BS歴史館へのコメント、地震と水(米国科学誌7.15号)

 

 下に見る私の年表(日本書紀編年が明瞭に示す、二重王制を考慮して作成したもので、詳細は4月10日記事)では、それは、宋書が書く「武王」(所謂倭の五王のお一人)時代の末期に相当します。蛇足ですが「武」の和風訓(よ)みとして「たける」が充てられたのがこの時代ではなかろうかと思っています。2012年11月21日の記事にも書きましたが、「武王」こそ日本書紀に登場する「日本武尊」のモデルと私は考えています。統一規格の鉄製武器の普及なども、それが武王時代になされたと考えることで、説明ができます。 

 https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/4/8/482edab6.jpg

 

 

 

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彌奴国(3),森浩一氏を悼む

 

 

 

 

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神功皇后と応神天皇にまとわり付く死、集団的自衛権

 

 

 

 

  この説話は、多くの歴史家、歴史愛好家の頭を悩ませて来ました。意味がよく分からないというのです。名前交換については、本ブログ記事2012年11月7日に既に論じています。簡単にそれを繰り返しておきます:
宋書倭伝が書く「倭の五王」の二人の名前「興」王、「武」王から合成されたのです。つまり「興=高」はラテン語表記では「KHO」です。既に繰り返し書いていますが、これは「コ」とも「ホ」とも音するのです。一方「武」は「ム」です。こうして「ホム」という名が作られたのです。藤原不比等の広大な学識を反映する「詐術」と、私は思っています。

 さて、自らが両親からもらった名前を神に差し上げる。これは、神の世界に入った、つまり鬼籍に入った事を意味します。そして神から名前を戴く。これは仏教で言えば「戒名」です。しかもその名たるや、大国(南)宋の正史に書き留められている名前です。

 上記二つの説話から、現在に生きる我々が推断できること。それは藤原不比等の思惑とは裏腹に、お二人、「応神天皇」と「神功皇后」は亡くなっていたという事です。そして、その死は、古事記を見る限りでは、待ち伏せを食らった騙し討ちです。「恨みを持った死」であったと思います。つまり宇佐神宮に祀られる要件をお二人は備えておられることを知った次第です。
(つづく)

 

 

 

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光武賜以印綬 (西暦57年)の政治的意味

 

 

 

「彌馬国」哀話
前回書いた古事記の説話、それは、とりもなおさず、応神天皇神功皇后の「逃亡と死」でした。
この説話を注意深く見ると、興味深いことに気づきます:
第一は、応神天皇の生誕地を日本書紀は「宇彌」(ウミ)、とも「蚊田」(モンタ、またはブンタ)とも書きます。言い伝えは、応神天皇を「うみおとした」地であるからと書きます。私は、その地が「彌」であったこと、まさに彌馬国で生誕したことを示唆していることに強い関心が向きます。「蚊田」とは、何か?九州の玄関「門司」であろうかとも考え、門司という地名の由来を調べて見ました。しかし、地名の議論は難しいですね。今のところ分かりません。
 

 

 

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西都原古墳(4、男狭穂塚)

 

 

 

 「古墳時代の研究」(石野博信編、雄山閣、1998)によれば、西都原古墳群には329基の古墳が同定され,内32基が前方後円墳とされます。そのうち顕著な23基(最大の二基を含む)が上図に示されています。それらを古墳の主軸の方向で分類すると(最大の二基を除く):
北西ー南東:6基
北東―南西:5基
南北:4基
その他(東西)6基
前円部が(明瞭に)南を向く:3基
 北西―南東に軸方位を持つ前方後円墳6基のうち、5基は北半分に集中しており、その方位は
男狭穂塚の短冊方位に比べると、より北向き成分が大きく、角度にして10度ほどです。方位軸はおおよそ西70度北という事になります。これらの方位が、シリウス星方位によって設計建造されたとすると、2013年3月22日の記事で掲載したシリウス星・年代表を用いることで築造年代が推定できる事になります:

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/3/c/3c02d299.jpg

 

 

 

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卑弥呼の死後(魏志倭人伝より)

 

 

 

 

 以下に、魏志倭人伝に列挙されながら詳述されなかった21国を再掲します。このうち、ゴチックで示された国の候補を地図に示しました:
%%%%%魏志倭人伝より
 其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬(シマ)國、次有己百支(イヒャクシ)國、次有伊邪(イヤ)國、次有都支國、次有彌奴(ミナ)國,次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼(キ)國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利(ハリ)國、次有支惟國、次有烏奴(ウヌ=宇和島?)國、次有奴國、此女王境界所盡。
%%%%% 

 

 

 

 

 

 

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倭国一~四世紀編年史構築の試み(2)

 

 

 

 

 魏志倭人伝が記載する記事から、一世紀~四世紀の倭国の政情をこれまでの考察を基にして整理する作業をしています。前回、「三](彌)国の二(不)国と七(奴)国による分割統治を書きました。前回、三つを列記しました。その続きです。
(4)分割統治をめぐる戦闘を語るのが、が後漢書が書く以下の記事であったと考えます(8月16日記事に詳述):
%%%%%後漢書記事引用
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
%%%%%引用終わり

 

 

 

 

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足摺岬・唐人巨石群

 

 

 それはさておき、私にとって有益であったのは 
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/index.html 
です。この地は「花崗岩」の視点からは、地球科学の興味深い謎をはらんでいることを知りました。
 いずれにせよ、唐人駄場は大変興味をそそる遺跡です。以下のHPには写真が満載されています。
http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kochi/tojindaba.html
http://homepage3.nifty.com/gaia-as/AshizuriMegalithsj.html
http://homepage3.nifty.com/gaia-as/AshizuriMegaliths.html
http://www.moritomidori.com/sasayaki/shizentaiken/oodokai.html 
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai08.htm 
http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/tosa_shimizu/tojindaba.html 
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/asizuri.htm  

 

 

 

 

 

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紀元一世紀から三百年間の倭国の政情(4)

 

 

 

 

紀元一世紀から三百年間の倭国の政情(4)
 邪馬台国議論の主要なポイントを列記するすることで、紀元一世紀の倭国の歴史編年を試みています。前回まで四点を列記してきました。今回は五番目です:
(5)邪馬国連邦の卑弥呼共立(8月19日記事)
魏志倭人伝原文:
其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂(西暦180年前後)、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飮食、傳辭出入居處。宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。

 前回、書きましたが、西暦107年ごろ、奴国は、百人余の奴隷(生口)を漢に献じます。これは、奴国が彌(馬)国の攻略と、不国との分割に成功した御礼であろうと以前書きました。 それから70年間、倭国の騒乱は収まりません。この騒乱に敗残した彌(馬)国が関与していたのかどうかは定かでありません。しかし、四国に残された地名から、残党の逃散の形跡が窺われます。そして西暦180年、二世紀の終わりに、卑弥呼が擁立され騒乱は収まったと後漢書は書きます。

(6)邪馬国連邦の分裂 (8月23日記事)

 

 

 

 

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古代史編年(二段)、最近十年間地球温暖化は止まっていた!

 

 

 

 

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権力に抗う勢力は大きくなれるのか?

 

  そんな折、知人から不定期刊行の文芸誌「葦芽」(あしかび、同時代社発行)39号が送られてきました。この誌名は古事記に由来すると発行編集者は書きます。
http://www1.odn.ne.jp/ashikabi/
 以下は古事記の冒頭の文章です:
%%%%%古事記引用
「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。次國稚如浮脂而。久羅下那州多陀用幣琉之時。如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇麻志阿斯訶備比古遲神 次。天之常立神。此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。」
%%%%%古事記引用終わり
 文意:岩波文庫古事記」18頁より
 「天地がはじめて発したとき、高天原に成れる神は天之御中主神(あめのみなかぬし)、次高御産巣日神(たかみむすび)、神産巣日神(かみむすび)であった。この三柱の神はどなたも(並)独神(ひとりがみ)として神に座(おわ)し身を隠した。国は稚(おさな)く浮脂のようにフワフワしており、久羅下(くらげ)が那州(なす)ように多陀用幣琉(ただよ)っていた時である。この時、葦牙(あしかび)のように萌え騰(あが)って神になったのが宇麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこ)、天之常立神(あめのとこだて)であった。この二柱の神も独神で、身を隠した。」

  上記の神についで七神が登場しますが、その最後の神が「イザナキ」、「イザナミ」です。この二神に冒頭の五神が国土の形成を指示することから、日本列島の歴史が始まります。

 

 

 

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古事記と日本書紀,千鳥ケ淵戦没者墓苑

 

 

 

古事記日本書紀
 前回、古事記の冒頭部分の記述を以って、それが藤原不比等倭国史観に基づいて構築されていると書きました。これには異論のある方も多かろうと思います。実際、古事記日本書紀の違いが多くの学者・研究者によって研究され、おびただしい数の学術論文として結実されています。
 古事記の上・中・下三巻にわたる歴史記載に先立って、上巻は序言に始まります。その後段に下記が書かれています:
%%%%%古事記序言からの引用
 於焉惜舊辭之誤忤。正先紀之謬錯。以和銅四年九月十八日。詔臣安萬侶。撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭。以獻上者。 謹隨詔旨。子細採〓[手+庶]。然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難。已因訓述者。詞不逮心。全以音連者。事趣更長。是以今。或一句之中。交用音訓。或一事之内。全以訓録。即。[辭理〓見以注明。意况易解更非注。亦於姓日下謂玖沙訶。於名帶字謂多羅斯。如此之類。隨本不改。 大抵所記者。自天地開闢始。以訖于小治田御世。故。天御中主神以下。日子波限建鵜草葺不合尊以前。爲上卷。神倭伊波禮毘古天皇以下。品陀御世以前。爲中卷。大雀皇帝以下。小治田大宮以前。爲下卷。并録三卷](この部分文意では省略)。謹以獻上。臣安萬侶。誠惶誠恐。頓首頓首。
和銅五年正月廿八日。正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上。

文意:岩波文庫古事記」16頁より 

 

 

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古事記と日本書紀(2),米国の初期地震警報

 

古事記日本書紀(2)
 前回、日本書紀古事記が書く倭国史の骨格は藤原不比等によって構想されたと書きました。天皇の名前とその系列順位がこの二つの歴史書で同じだからです。これについてコメントを頂きました。つまり、事実がそうであるなら、誰が構想しようと同じ編年史となるだろう、というものです。

 二つの歴史書が「人為的」に拵えられた「虚構」を含んでいいることを、上記コメントへの私の回答としたいと思っています。「虚構」とは即ち、
(1)日本書紀編年からきわめて明らかな二重王制を両歴史書が無視していること、
(2)神功皇后の存在を前提とした記述であること、
(3)「ホムタ]天皇命名の謂れなどです。
 日本書紀は、あたかも多様な史実を反映して編纂されたとの体裁を取り繕うことを目的として「一書曰く」と題して、多様な歴史経過を、時に記述します。しかし、基本的な歴史骨格では、二つの歴史書は全く同一なのです。上に例示したような「歴史の改竄」と思われる点については、詳細にわたって同一なのです。これは、誠に「不自然」です。これから書く私の編年史区分、D期、についての考察を通じてさらにこの事を考察します。D期とは、二王制の晩期を指します。東王は推古女帝、西王は敏達から皇極女帝までの五代の時期です。その期間は西暦625年頃から661年頃と考えています。

 

 

 

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推古紀考察(1),米国地震早期警戒システム(nature誌)

 

 

 

推古紀考察(1)
 これから考察しようとするのは、二王制の晩期です。この時期、東王(奈良盆地に拠する権力)は推古女帝、西王(九州似拠する権力)は敏達から皇極女帝までの五代の天皇です。その期間は西暦625年頃から661年頃と考えています。
 従来学校で教えられる古代史編年とは全く異なります。何故、こうした編年が出来上がるのか?簡単にそれを振り返って置きます。始めに、D期の考察に当たってのポイントをあらかじめ書いて置きます。前回、日本書紀古事記の「天皇」系列で見る編年はほぼ同じと書きましたが、一つ重要な違いがあります。
 古事記にあっては、天皇系列は推古天皇、つまりD期でその記述を終えているのです。しかもその記述内容たるや、わずか漢字34字です。名前、宮廷を構えた宮の名、在位年数、そして墓所それだけなのです。後述しますが、日本書紀記述に随えば、推古天皇は西暦592年から628年の34年にわたって在位されたとされます。この在位期間に、聖徳太子が摂政として治世に腕を振るった、とりわけ憲法十七条を発布し、対外的には二度にわたる遣隋使を大陸に派遣するなど、その事蹟は多とすべきです。しかし、古事記にあっては、殆どそれらは語られません。何がしかの政治的思惑が働き、書くことができなかったのです。 

 

 

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泉湧寺の見識

 

 

泉湧寺の見識
 日本書紀を編纂する際、実際の時間経過を二倍に引き伸ばす「捏造」が施されています(これまでにもこの事を繰り返し書いてきました)。それは、前回掲載した表から明らかなのです。しかし、何年から何年までがその「捏造」期間に該当するのかを決めるという問題が残っています。それを、決めない事には倭国の歴史編年作業はできません。勿論、この議論も、例えば、2013年4月12日の記事で行ってきました。以前考察したことに、いくつかの補足をしておきたいと考えています。そこで、前回書いたことを繰り返します:
%%%%%前回記事の再掲
 さて、次の問題は、年数を二倍に勘定するようになった年が何時であるのかを定めることです。これを考察するに当たって、考慮したのが以下の三点です:        
(1)初代天皇・神武の即位年とされる紀元前661年です(2013年4月12日記事に詳細を書きました);
(2)天智天皇の即位年、西暦662年(斉明天皇の死去が661年7月24日とされていますから実質は661年);
 そして
(3)京都東山連峰南端の月輪山に構える泉湧寺の天皇菩提です。
%%%%%再掲終わり
 先ずは、上記三点の内、最初の二点について、若干の補足をしておきます。補足を通じて、私がかねてより主張している奈良盆地に拠した「闇の陰謀権力」の存在が浮かび上がってくると思っています: 

 

 

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D期(東・推古、西・敏達)考察(1)、2013ノベル賞(2)

 

 

 

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推古紀考察(2)

 

 

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七世紀前後の編年史・私見(2)

 

 

 

 先ずは、欽明紀とは、日本書紀では下の表(表一)で黄色で表される期間です。私は、この期間をC 期と呼んでいます。歴代天皇の代で言えば二十六~二十九代の四天皇であり、日本書紀編年に従えば西暦507年から539年までの32年間と言うことになります。この期間が欽明期と同じ長さです。それは既に書きましたが、二十六代から二十八代天皇の在位期間の総和である32年間と同じになるのです(この事は異なる色の期間でも成り立っているので偶然とは言えません)。これを論拠にして、私は、この期間を二王制、つまり一方の王は西の九州に拠して32年間を治世し、他方は、奈良盆地に拠して三代の王、つまり継体、安閑、宣化の夫々の天皇が相次いで治世をしたと考えています。

(表一:日本書紀による古代史編年と天皇の在位期間:一覧は代数、二覧は漢風諡号、三欄は日本書紀巻数、四欄は森博達氏による日本書紀分類、五~十欄は天皇の即位・退位年月日、十一覧は月を考慮した在位期間、十二覧は古事記による和風諡号、十三欄は宮処) 

 

 

 

 

 

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「鳥撫賜」と「多利思」比狐(4)

「鳥撫賜」と「多利思」比狐(4)
 前回、日本書紀二十巻の記事敏達天皇十四年(五八五)八月己亥【十五日】天皇病弥留、崩于大殿。是時起殯宮於広瀬。馬子宿禰大臣佩刀而誄。物部弓削守屋大連听然而咲曰。如中猟箭之雀烏焉。次弓削守屋大連手脚揺震而誄。〈 揺震、戦慄也。 〉馬子宿禰大臣咲曰。可懸鈴矣。由是二臣微生怨恨。
を考察しました。
 蘇我馬子敏達天皇の葬儀で、馬子は「雀」のようだと揶揄されます。腰に佩した刀が、弔辞を(誄、しのび言)述べるたびに、あたかも雀の尾羽のように上下に揺れたさまを、物部弓削守屋大連があざ笑ったと書紀は書きます。
 馬子を雀つまり鳥になぞらえるエピソードは、万葉集三歌に詠われるように(且つ、隋書倭国伝でも)大王の名が「ToLi」であったからです。これを{鳥}と言う漢字を当てたのは万葉集三歌を詠んだ歌人です。この歌人の名前は詳らかではありません。天武の時代前後には「柿本人麻呂」が存在し、史実を「叙事詩」として詠い挙げました。
 

 

 

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「鳥撫賜」と「多利思」比狐(5)

 

「鳥撫賜」と「多利思」比狐(5)
 魏志倭人伝は、冒頭 八つの国の位置関係を書き、次に狗奴国、そして、残る二十一の国を書きます。その二十一国を列挙した部分です:
%%%%%魏志倭人伝より
自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里
%%%%%魏志倭人伝記事転載終わり

 文意については、8月7日の記事で書いていますから、此処では繰り返しません。私が注目するのは、上記でゴチックで表された国々です: 

 

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「鳥撫賜」(6)

 

 

 

萬葉集 - 第 1 巻

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小島憲之, 木下正俊, 佐竹昭広 · 1972 · スニペット表示
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... 等に賜ったお歌一首と短歌者は相飲酒曾此豐御祢宜賜将還来日このとよみひそにひひあみねぎたまかへり t 損撫曾称宜賜打撫 ... ht とりてきべきありせいくさなちともことちよろづの反歌一首あなたが帰っていらっしゃったら道に赤いつつじが色映える時 ...
 
 
 
 

萬葉集全註釋 - 第 1 巻

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武田祐吉 · 1948 · スニペット表示
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以上の二句は、下の、夕には取撫賜トリナデタマヒ。トリは手に取る意、ナデは愛撫する意の動詞で、熟語を作つてゐるが、トリは接として使用せられてゐる。下の夕庭も、これに倣ぶべきである。和多之! (後十九、四二〇九)などの例に依つて、アシタニハと ...
 
 

日本国民史: 上巻 - 第 1 巻

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1933
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現御神止大八島國所知天皇大命良願止大命乎集侍皇子等王臣百官人等天下公マヒナタマハ民諸聞食止認(中略) :此乃食國天下平調賜比平賜比天下乃公民乎惠賜比撫賜カナガラタモホシメサクトリターフスメテガオホミコト牛止奈は隨、神所思所作久止詔天皇大命, ...

 

 

 

「鳥撫賜」(6)
前回、万葉集三歌に登場する「鳥撫賜」を「トリブシ」と訓み、その名前が中東に由来するとすれば、その名前の意味は「光り輝く駿馬」であると書きました(現代ペルシャ語字典)。これを逆手にとって、藤原不比等は自らが編纂した「日本書紀」に登場させる人物の名前、そしてその風貌を描き出しました。すなわち「トリ」を「鳥」であるとして風貌を「雀」に喩え、「ブシ」が「駿馬」であることを使って「馬子」(バシ→ブシ)なる名前を編み出しました。
 くどいようですが、繰り返し書きますが、不比等万葉集三歌の「鳥撫賜」が、大王の名前であることを承知していたのです。しかし、この大王を自らが編纂する倭国史(「日本書紀」のこと)にそのまま登場させるわけには行かず、その人物を天皇重臣にしたうえ、それでも用心深く名前まで変えてしまったのです。しかし、その名前を変える過程で、不比等の「学者」としてのこだわり故か、「実在の大王」の名前を「変形」したのです。

 

 

 

 

 

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倭国東王万葉集三歌「 夕庭 伊縁立之」(1)

 

 

 

倭国東王万葉集三歌「 夕庭 伊縁立之」(1)
 七世紀初頭の倭国古代史を理解する作業は、ややこしいパズルを解く、もしくは宇宙起源に潜む深い謎の解明にも匹敵するのではなかろうかと思ったりします。その一番の因は前回書いたように、隋書倭国伝に登場する倭国王の名前がなんと紀元二世紀(日本書紀編年では)に登場することです。この登場の様子が、まことしやかです。大王の後を継いだ太子が「稚』として、日本書紀でもそのまま「使われて」いるからです。何故、藤原不比等はこうした、大陸の正史に明るい教養ある人物から診たら「不自然(オカシイ)」と思うような「歴史改竄」を倭国正史たる日本書紀にもりこんだのでしょうか?
 こうしたトンチンカンな記載を取り繕うことを狙ったのか、日本書紀欽明天皇継体天皇の嫡子と書きます。ウイキペディアは嫡子を次のように説明します: 

 

 

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万葉集三歌「「伊縁立之(たつの)」(2),朝日新聞

 

 

 

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神はもう必要なくなったのか?(米国科学誌)

 

 

 

 

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鳥撫賜(鞍作鳥)と伊縁立乃(多須那)(2),チバラギの地震