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万葉集:日本書紀:古事記:(13):20090403:万葉集1歌

万葉集:日本書紀:古事記:(13):20090403:万葉集1歌

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一歌(3)

 

さて、本歌原文です。
「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母」

 

万葉集学者の吉村誠教授(山口大学

 

http://c-able.ne.jp/~y_mura/

万葉集巻第1

#[番号]01/0001
#[題詞]雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌
#[原文]籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
#[訓読]籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
#[仮名],こもよ,みこもち,ふくしもよ,みぶくしもち,このをかに,なつますこ,いへきかな,のらさね,そらみつ,やまとのくには,おしなべて,われこそをれ,しきなべて,われこそませ,われこそば,のらめ,いへをもなをも

 

 

#[番号]01/0002
#[題詞]高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] / 天皇登香具山望國之時御製歌
#[原文]山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜𪫧國曽 蜻嶋 八間跡能國
#[訓読]大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
#[仮名],やまとには,むらやまあれど,とりよろふ,あめのかぐやま,のぼりたち,くにみをすれば,くにはらは,けぶりたちたつ,うなはらは,かまめたちたつ,うましくにぞ,あきづしま,やまとのくには

 

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Index

http://c-able.ne.jp/~y_mura/gaisetu/index.htm

 

 

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法螺と戯言 : 万葉集巻一(雑歌)(1)

20:05 by

いよいよ万葉集一の巻の解読に入ります。
私の万葉集解読は、古田武彦氏による指針と、渡辺豊和氏の歴史観に従っていると書いてきました。先ずはそのことをここで確認の意味で再度書きます。
 このブログでは万葉集巻乃一を読んでいきます。

 

法螺と戯言 : 万葉集一歌(2)

18:24 

by

 

 万葉集の巻一には「雑歌」として分類される84の歌があります。歌のカテゴリには、これに加え「相聞歌」、「挽歌」があります。古代文学研究者は、「雑歌」には、「愛」「死」に分類できない歌をまとめたのであろうと考えているようです。もっとも,折口信夫氏は「歴史的重大性を持っているものは,原則として、たとえ他の分類に入るべきものも一様に雑歌とみなしてよいのであった。いいかえれば、宮廷史としての意義を明らかに持つものが雑歌だったのである(渡瀬昌忠、「万葉集一」勉誠社、1992年、173頁)」。本ブログ著者の立ち位置は概ね折口氏と同じです。

 

法螺と戯言 : 万葉集一歌(3)

15:30 

by

 

万葉集学者の吉村誠教授(山口大学)はこの歌の訓読として下記を付しておられます。
「篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも」
吉村教授は万葉集の全ての歌についてこうした作業を為され、それを下記のホームペイジで公開されておられます。大変な労力であったはずで、私は教授のこのお仕事に最大の敬意を払うものであります。
http://www.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/MANYOU/manyou_kensaku.html

 

法螺と戯言 : 万葉集一歌(4)

13:14 

by

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(1)

10:08 

by

 

二歌に行きましょう。まず題詞です:
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] / 天皇登香具山望國之時御製歌歌」
高市(たけち)岡本の宮におられた天皇である舒明天皇(漢風諡号、西暦629-641在位)が香具山に登られ国を見渡したときに詠った歌。

次に本歌です。
「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者」
漢字列を眺める前に、吉村教授による訓読は以下のようです。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(2)

15:11 

by

 久松潜一博士も、御自分の解釈に居心地の悪さを感じて居られる様で、以下のような補足(弁明というべきか)をされておられます。
「国原:国の広がってるのをいう。海原も同様である。山の上から見下ろした平原を言う。
加万目立:鴨と見るかどうかには説がある。もしはるかに海が見えるとすれば鴎であるが、ここでは実際に海は見えない。(大和盆地内の)湖も「みずうみ」であって、池や湖を「うみ」と言うこともありえるので、そうとすればこれは鴨の方がふさわしい。(上記書、62頁)。

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(3)、(HARRP=地震兵器?)

18:42 

by

 私の立ち位置を再度確認しておきます。万葉集一巻、雑歌で詠まれている事件はすべて、古代に実際に起きていたのです。663年の白村江の海戦後に日本列島に進駐した唐・新羅連合軍とそれに呼応した(阿った)宮崎県の一族(西都原)が奈良盆地に進軍し、占領府を大宰府に構えた後、8世紀に、古事記日本書紀として「新たな日本歴史」を捏造したのです。捏造に際して、九州にあった敗北の政権の事跡をつまみ食いしたのです。ですから、日本書紀には、九州の地の事跡が必ずや書き込まれている筈です。

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(4須彌山)、時事ネタ(串田嘉男氏のFM観測)

22:40 

by

万葉集二歌(4)
 日本書紀の斉明5年にこんな記事があります。
『三月、甲午。甘檮丘東之川上。造須弥山、而饗陸奥与越蝦夷。』(岩波文庫(四)、348頁)。文意は「3月17日、あまどうきゅう(日本書紀に付された書き込みでは「あまかすの丘」と読ませる)の東にある、川上に須弥山(すみせん)を建造し、陸奥と越の人達をもてなす」というものです。この年の三月朔(ついたち)の干支は戊寅(つちのととら)ですから、甲午(きのえうま)は17日になります(念のため)。

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(5、甘檮丘=天山)、南部博士と同郷の竹内博士

14:51 

by

 

 上記の議論の根拠を 栗本慎一郎がその著作で触れています(「シリウスの都、飛鳥」、たちばな出版、2005)。この本によれば、西アジアの言語ではGがKHに相互転化するといいます。例えば、gujarat(イラン東方)はkhazar(ハザール、8世紀ー12世紀、カスピ海に興った国、現在の肌の白いユダヤ人、アシュケナジの祖先といわれる)と同一と氏は指摘するのです。香具山はkakhayama(かはやま、かああやま)つまり香山、高山と同一と思って良いようです。

(つづく)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二歌(6、御笠川は運河)、湯川博士と朝永博士

19:22 

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ところで、九州大宰府の西を北西に走る「御笠川」は板付飛行場で流れを捻じ曲げられているが、異様と言ってよいほどの直線的形状で「聖なる方位」に沿って流れています。斎明天皇にはゾロアスタ教の影が付きまとっているとは多くの史家が指摘しています(例えば、「火の路」、松本清張)。「ペルシア文化渡来考」(文献参照)で伊藤義教氏が、「狂心渠」をその44頁で考察しています。古代ペルシア語で、こうした人口運河を「カハス」と呼ぶとあります。御笠の「かさ」は「カハス」に由来したのではないでしょうか。とすれば、この御笠川は多分渡来ペルシア人の手になる運河と断ずることができるとおもえるのです。

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(7)

11:44 

by

 

実は、日本書紀も暗に「御笠川」が運河であることを認めているのです。そこで、前回書いた「御笠川」が書紀の言う「渠」であるや否やを、日本書紀を参照しつつ検討してみることにします。
日本書紀巻第九、神功皇后摂政前紀によれば、三月、皇后自ら熊鷲征討に出陣します(岩波文庫(二)140頁)。『戊子 皇后欲撃熊鷲 而自橿日宮遷于松峽宮 時飄風忽起 御笠堕風 故時人號其處曰御笠也。##香椎宮から松峽宮に遷る際、一陣の突風で笠が飛ばされ落ちた。そこで、この地を「御笠」と呼ぶようになった。』

法螺と戯言 : 万葉集二歌(8)

14:14 

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 前々回引用した斎明天皇二年の記事を、もう少し詳しく検討してみます。原文はこうです:
『時好興事。廼使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。累石為垣。時人謗曰。狂心渠。』大まかな内容は「(天皇は)時に事を興すことを好まれた。水を使い、それを回遊させるために地面を穿ち堀を作られた。それは、高山から、西にある石上山に至るものであった。二百艘もの船で石上山の石を運んで造った。水の流れを引き込んで、東の宮にいたらせるために、石を重ねて垣と為した。当時の人はそうした工事を嫌って、狂人の溝(堀)と非難した」。

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二歌(9)

12:31 

by

さて、天山について、興味深いことに気づきました。
日本書紀景行天皇紀再度(巻七)18年(岩波文庫(二)、80頁)に下記の記事があります。
『秋七月辛卯朔甲午 到筑紫後國御木 居於高田行宮 時有僵樹 長九百七十丈焉 百寮蹈其樹而往來 時人歌曰 阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔弊菟耆瀰 伊&#21702;羅秀暮 瀰開能佐烏麼志 爰天皇問之曰 是何樹也 有一老夫曰 是樹者歴木也 嘗未僵之先 當朝日暉 則隱杵嶋山 當夕日暉 亦覆阿蘇山也 天皇曰 是樹者?木 故是國宜號御木國』
意訳は「筑紫の国の巡狩の際、御木で大木が倒れていた。土地の古老が言うには、この木は歴木(くぬぎ)といいます。かっては、日の出には、朝日が杵嶋山に差すのを遮り、日の入りには、夕日が阿蘇に当たるのを遮ったものでした』です。

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二歌(10)

16:30 

by

 

 西30度北の方向とは、この地にあっては、実は特別な方向です。夏至の日に太陽が沈む方向を天山で計算するとそれは、298.3度、つまり西28.3度北であり、ほぼ西30度北と同一となります。言い換えると、阿蘇山から見ていると、夏至には、日はまさに天山の背後に沈むのです。

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌(11)

18:48 

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 神武天皇の31年のこの行が、万葉集一歌からの借り物であることがお分かりのことと思います。ところが、研究者の多くは、依然として日本書紀が先にあり、万葉集は書紀に記載されている事件を歌に詠んだとの認識なのです。ですから、「蜻嶋」も、日本書紀で「あきづしま」と読んでるのだから、万葉集でもそう読むのが当然と考えられてきたのです。
 ここで、注目すべきは、万葉集一、二歌で用いられている「語」が、初代天皇とされる神武天皇の事跡を語るのに用いられていることです。私はこれは、偶然ではなかろうと思います。まさに、万葉集一歌二歌は九州王朝をはじめた大王の事跡を詠っていることを、日本書紀編纂者は知っていたからだろうと確信しています。
(つづく)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二歌(12)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二歌(13)

 

10:58 

by

 

日本書紀天武4年一月にこんな記事があります(岩波文庫(五)120頁):天武天皇四年(六七五)正月壬子【7日】。賜宴群臣於朝庭。文意は「朝廷で臣下を集めて宴を催した」ということでしょう。岩波文庫の解説をされている学者先生も「朝庭」に「みかど」との読みを与えています。日本書紀が「朝廷」を意味させるために「庭」を使うのはこれだけではありません。天武天皇8年9月にも同じ用法が見られます(岩波文庫155頁)。