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万葉集:日本書紀:古事記:(21):20090925:20091106:万葉集十八歌、十九歌二十歌?二十一歌:二十四歌:柿本人麻呂:

万葉集:日本書紀:古事記:(21):20090925:万葉集十八歌、十九歌二十歌?二十一歌

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一~二十二歌を振り返る(十七)

19:21 

万葉集一~二十二歌を振り返る(十七)
十八歌、十九歌を振り返ってみます(7月31日の記事)。

 

法螺と戯言 : 万葉集一~二十二歌を振り返る(十八)

17:56 

万葉集一~二十二歌を振り返る(十八)
二十歌?二十一歌です(8月2日~7日、

 

 

法螺と戯言 : 万葉集一~二十二歌を振り返る(十九、亡くなられたのは斉明天皇?)地震兵器説(3)HARRP

19:24

 

法螺と戯言 : 万葉集一巻二十三歌(一、序)、地震兵器説(4)HARRP

18:00

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(二、太歳はやわかり)、地震兵器説(5)

11:38 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(三、左注の太歳)、スーパ地震の破壊力

18:32

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(四、舞台の一つは鹿島?)、東京03頑張れ!

18:54

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(五、生類憐れみ令古代版)、被災国支援声明

18:33

以来、生類憐れみを人々に強制し、人命よりも動物、特に犬の ... に、古代日本においても、仏教思想の影響により、鳥獣の殺生・食肉. を禁じた法令が少なくないので ...
 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(六、麻績王の職掌)、地震の破壊領域とは?

18:36

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(七、生類憐れみ令古代版)、スーパ地震(序)

18:48

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(八、壬申の大乱はなかった?)、スーパ地震(始まり)

18:31

 

 

 

 

書評

人麿の運命  古田武彦  原書房 1994年3月発行 1748円

 人麿は謎の歌人である。持統期の宮廷歌人であったとみられるが、正史から抹殺されているので、生まれも年齢も死んだ場所も死因もわからない。人麿の死を詠んだ鴨山五首は様々に解釈されてきた。

 古田の鴨山発見のくだりは、梅原猛に比べればあっけなく思える。古来、鴨山の所在地と言われていた所だからである。ともあれ鴨山の地は定まった。ここに人麿は左遷され、自害を強いられたのだろう。その理由は何か。古田は彼の古代学の達成を見せつける。人麿は筑紫に赴いた。途中の歌はある。しかし筑紫での歌が無い。折りしも百済と共同で戦って負け、中国の占領軍が駐留していた筑紫の倭国、人麿は在りし日を思い、悲嘆にくれ、壮大な挽歌をものしたであろう。しかしそれらはすべて削除されている。

 万葉集の欠落。九州四国中国地方つまりは倭国の人々の歌の欠落。白村江の敗戦にまつわる歌の欠落。人麿の筑紫での歌の欠落。極端に言えば、万葉集は、倭国の存在を抹殺するために編まれたとさえ言えるかもしれない。

 この本の執筆当時、古田は人麿を大和の歌人とみているが、このところの古田の万葉研究によって、少なくも万葉集巻1-2は九州王朝で作られた『原万葉集』のすさまじい剽切だということが明らかになってきた。歌人の名をすげ替え、詞書を捏造し、おそらくは時代さえも移し変えているのだ。人麿の名が正史にないことは、人麿が大和の人間ではないことを指し示しているのだろう。

 古田武彦はおそらくはもう一度、人麿論を上梓しなければならないだろう。  2000.

 21世紀なって『古代史の十字路』と『壬申大乱』が刊行された。驚天動地の万葉論であり、人麻呂論である。   2002.12.

人麻呂歌集が人麻呂の作だとなれば、「てにをは」を表現する漢字を選定し、万葉仮名による和歌の表記を発明したのは人麻呂であるといえよう。そのような偉人であるからこそ万葉集も彼の和歌を除外することはできなかったのだろう。

 

柿本人麻呂 - Wikipedia

柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日[1])は、飛鳥時代歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。柿本大庭を父とする系図がある。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(九、天智・天武暦)、スーパ地震(六)

17:41 

 

万葉集二十三歌(九)
 先ず、初めにこれまで書いて来た事についての訂正とお詫びを書かねばなりません。それは、万葉集「左注」の「紀」(または日本紀)の天皇年代紀と日本書紀のそれが一年ずれているのではないかと、当該ブログ筆者は書いてきました。しかし、これは誤りでした。そのように書くに至った「思い込み」がありました。日本書紀の書く推古女帝の没年を629年と思い込んでいたのです。
いずれにしても、日本書紀天皇年紀は、前天皇の亡くなられた年を「元年」としないということには変わりありません。現在の天皇年紀とは異なっています。

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十,天智・天武の干支暦)、天皇による国政容喙

17:25

 

万葉集二十三歌(十)
10月7日に十干十二支の表を掲載しました。私は、未だにこの十干十二支を憶える事が出来ておりません。このブログを訪ねて下さってる方々の何人かは,私同様ではなかろうかと思います。そこで作成したのが下表です。今日は、この表の説明を致します。

18:00)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十一、酷似する天智・天武暦)、フリーメーソンと天皇

18:55

天武天皇六年 五月壬戌朔。不告朔。」(この年の5月1日は「壬戌(みずのえいぬ)」であるが、その朔日にそれを告知できなかった)。
月の観測から、「朔」の告知を恒常的にしていたので、それが出来なかった月については、異例なこととして、日本書紀にそれが記載されています。しかし、これは、後の世の学者さんの解釈であって、私には、これが、やや不自然に写ります。理由は後刻書きます。

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十二、図で見る旧暦閏月)、スーパ地震(1)

16:46 

 

この図で、青の星印は天武暦です。赤丸は天智暦です。横軸は天智暦に従い、天智天皇の在位日数です。天智暦と天武暦とは干支の上ではわずか2日しか違いません。そこで、天智暦をその二日分ずらしたのが青星印です。図では、663年1月(天智2年)から663年9月の期間が表示されています。この期間に限ると、その日数の違いは、2月で28日もの違いがあります(10月7日の表参照)。そのため、赤丸と青星は大きく隔たっています。ところが、8月になると、青と赤はほぼ同じ場所に位置します(実際は、干支で二日違い)。何故、そうなったのでしょうか?それは、天武暦(青星印)野5月―6月で何かの作為が施されたからです。天武暦での(青星印)6月の干支は、図中で右上がりに引かれた点線と6月を示す横線が交わる緑丸の位置にあるはずです。しかしながらそれは、29日分だけ右にずれています。これは、6月が2回あった事を意味するのです。つまり、天武2年に6月が2回あったのです。これが閏月です。
(つづく)

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十三、図で見る天智・天武暦比較)、スーパ地震(2)

16:02

 

勿論、天智天皇の暦が、天武に合うように作成されたとの推論も成り立ちます。次回、6年間の暦の比較を図で示しながら、検討して見たいとおもいます。
 (つづく)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十四、図で見る暦比較ー2)、スーパ地震(3)

16:43 

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/d/e/de724a25.jpg

図で幾つかの三角形が置かれています。これは、日本書紀から取り出した大きな事件です。赤は天智紀、青は天武紀、です。一番左の系列の6月に現れる三角形は、青ですから天武紀元年6月というわけで、これが壬申の大乱を意味します。第二系列9月の赤は、天智紀二年の白村江の海戦です。第三系列の五月、十二月の赤い三角形は重大です。前年の9月に白村江の海戦で、日本と百済の連合軍が、唐・新羅の連合軍に敗れました。それに伴い、勝利した唐新羅の連合軍の郭務悰将軍が来倭したのが天智3年五月です。そして、彼らは同年十二月まで滞在しました。この間、倭国との終戦処理協議が行われたであろう事は間違いありません。
第四系列の4月中旬の青三角は、今私が考察している麻績王の流罪事件です。そしてこの年の9月末から十二月にかけて、再度唐新羅連合軍の郭務悰将軍が来倭滞在した事が赤三角で示されています。
第五系列の四月の赤三角については、本論考察の一つの推論ですので、後刻詳述します。
そして、第六系列の二月に、斉明天皇孝徳天皇妃の合葬して、翌三月に近江へ遷都したわけです。
(つづく)

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十五、二十四歌左注の謎)、天木氏の沖縄問題に関するコメント

17:44 

 

万葉集二十三歌(十五)
 さて、ここでもう一回、二十三歌議論の出発点の一つとなったのは、二十四歌に付された左注です。二十四歌は、二十三歌とほぼ同じ状況を詠っていますから、二十三歌の考察にあたって重要な視点をあたえてくれます。(10月2日の記事:(http://hyoutanjima-ab3.blog.drecom.jp/archive/132
(左注)(右案日本紀天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三位麻續王有罪流于因幡 一子流伊豆嶋 一子流血鹿嶋也 是云配于伊勢國伊良虞嶋者 若疑後人縁歌辞而誤記乎)
10月1日に書いた事を繰り返します:

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二十三歌(十六、書紀天武六年四月紀)、スーパ地震(4)

19:41

 

 ところで、私は、書きたい気持ちが先走るあまり、現在議論している「左注」が、二十三歌に付されているかのように書き進めてきてしまいました。しかし、そうではないのです。それは、二十四歌に付されています。
 遅きに失したとの批判を甘んじて受けねばなりません。その上で、この先の議論の為にも二十四歌を前もってここで、掲載して置くことにします。
(題詞)(麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌)麻續王聞之感傷和歌
(原文)空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
(訓読)うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す
(仮名)うつせみの,いのちををしみ,なみにぬれ,いらごのしまの,たまもかりをす
(左注)右案日本紀天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三位麻續王有罪流于因幡 一子流伊豆嶋 一子流血鹿嶋也 是云配于伊勢國伊良虞嶋者 若疑後人縁歌辞而誤記乎