万葉集:日本書紀:古事記:(17):魏志倭人伝:万葉集1歌2歌:
所で、この二歌では「八間跡能國」なる表記があります。これがフト気になったのです。思えば、天武領は「狗奴国」です。これは、日本古来の数の勘定である「ココノツ=九」を思わせる音です。そして、その南の「投馬国」はまさに「トオ」、つまり「十」です。そこで、魏志倭人伝に列挙される国を整理してみたのが次の表です:
對馬國、「ツイマ」、「ついたち」の「ツイ」であるからまさに「一」
一大國、後述
末盧國、「ムツラ」 文字通り「ムッツ=六」
伊都國、「イツ」、「イツツ=五」
奴國、「ナ=七」
不彌國、「フミ=二・三」
投馬國、「トオ=十」
邪馬壹國、「ヤマ」 で「八」
狗奴國、「クヌ=九」
というわけです。その他に分類される二十一国を除けば、無いのは「四」だけなのです。そこで、「一大國」を考えて見ます。これは魏の調査官のメモを本国の書記官が報告書として記載する際の読み間違いではなかったかと想像しています。調査官は「与」とメモしたのです。例えば下図のような走り書きであったと思われます。
最左は調査官がメモ帳に書きとめたつもりの漢字。その右隣は、急いで書き留めたために上の横棒が離れてしまった。そして、右の二つは、魏の記録官が、調査官から受け取ったメモを基に作成した報告書、というわけです。
No.1
#[原文]籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
No.2
#[原文]山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜𪫧國曽 蜻嶋 八間跡能國者
一大国
末盧国
伊都国
奴国
不弥国
投馬国
邪馬壱国
狗奴国
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國
次有巳百支國
次有伊邪國
次有都支國
次有彌奴國
次有好古都國
次有不呼國
次有姐奴國
次有對蘇國
次有蘇奴國
次有呼邑國
次有華奴蘇奴國
次有鬼國
次有為吾國
次有鬼奴國
次有邪馬國
次有躬臣國
次有巴利國
次有支惟國
次有烏奴國
次有奴國
此女王境界所盡
次にシバ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。
2009年05月08日13:05
三歌に移る前に二歌の歌意を書きます:
2009年05月10日10:36
「八隅知之」は、字訓がそのまま鑑賞者の心に入ってきます。「四方どころか八方隈なく、ご存知であらせられる我らが大王」と解読してよろしいでしょう。
ところで、推古天皇の20年正月に宮廷で宴が催されそこで、蘇我の(ブログ作成者注)大臣が寿詞を申し上げた上で、歌を詠ったと言う記事があります。
《推古天皇二十年(六一二)春正月辛巳朔丁亥。置酒宴群卿。是日。大臣上寿。歌曰。(岩波文庫(四)122頁)
その歌が、なんと、「やすみしし わがおほきみの」で始まります。それに応えた推古天皇の歌は「馬蘇我よ、蘇我のこらは」という出だしで始まる、蘇我一族を褒めちぎるものです。これは、なにやらsuggestiveです。日本書紀の編纂者が、一体何を隠蔽しようとしたのか測りかねる記事ではありますが。
(つづく)
#[番号]01/0003
#[題詞]天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
#[原文]八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里
#[訓読]やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
#[仮名],やすみしし,わがおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,ゆふへには,いよりたたしし,みとらしの,あづさのゆみの,なかはずの,おとすなり,あさがりに,いまたたすらし,ゆふがりに,いまたたすらし,みとらしの,あづさのゆみの,なかはずの,おとすなり
2009年05月13日16:20 by
小野妹子が隋の天子に宛てた親書は日本書紀には記されておらず、それは、『隋書』倭国伝に記録されています
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
2009年05月15日15:29
開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,[12]號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
2009年05月17日19:43
渡辺豊和氏の仮説に従えば、「高=蘇我一族」には二人の「王」がいた筈なのです。何故なら、この一族は匈奴の血を引く北方アジアから沿海州或いは間宮海峡をへて日本列島に渡来したのですから。そうとすれば、上記の歌に詠まれた二人の王の存在は渡辺仮説と整合します。
2009年05月20日20:26
なんといっても古代史に大衝撃を与えたのが「隠された十字架」(梅原猛著、新潮社、1972)です。私が、そもそも古代史にのめりこむきっかけとなった本でもあります。この法隆寺がそもそもは、現在の斑鳩の地ではなく、大宰府に隣接する観世音寺にあったとの説は私には大変説得的です。何故なら、いま議論しようとしている釈迦三尊像の光背に書かれている銘文(光背銘文)は、「法興」という元号で始まるのです。奈良に日本列島支配王朝があったと前提する「日本書紀」には、書き込まれていない「元号」です。古田武彦氏が「法興」は九州王朝が用いていたそれであると指摘しています。遣隋使の倭国使節が「おらが国には阿蘇があるでよ」と皇帝に話したこととも整合します。
2009年05月22日15:10
光背銘文の解読は私の能力を超えていますので、下記を参照します:
???
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/syakamei/syakamei.html
???
http://www.k-kagami.com/2020/1206/2020-1206-04.jpg
FURUTA TAKEHIKO RESEARCH NOTES
2009年05月24日18:31
2009年05月27日18:30
2009年05月31日08:12