tas-net-2の日記

自動車整備、修理対応

万葉集:日本書紀:古事記:(4):20140108

万葉集:日本書紀:古事記:(4):

 

 

法螺と戯言 : 万葉集三歌[「獦」とは?]

 

22:30 by 瓢箪虻

万葉集三歌[「獦」とは?]
 倭国の二王を詠っている万葉集第三歌の原文を再掲します。この歌については、以前にも解読しましたが、古代史の勉強を本ブログ記事を書きつつ勉強する過程で、「手直し」の必要を感ずるからです。便宜上、フレーズごとに番号を付してあります。

 

 

 

blog.livedoor.jp

22:30 by 瓢箪虻

再び欽明ー継体時代(1)

 

 さて、この時代は、上表では黄色の期間で示されています。此処では倭国E期と名づけます。西暦に直すと593年頃から624年頃で、その期間は30年余となります。日本書紀の編年に従えば、507年から571年で60年余となります。
 私の編年に従うなら、この倭国E期は倭国史の中でとりわけ注目されねばならない事件が起きています。それは、正体が詳らかにされていない継体天皇の出現と、時をほぼ同じくする隋の建国です。

 

 

 

法螺と戯言 : 都知事選(4)、纏向遺構

 

纏向遺跡

 

 

法螺と戯言 : 都知事選(5)、纏向遺跡(2)

纏向遺跡(2)
 前回、いささか舌足らずの議論を書いてしまいました。過去記事に依拠しながら若干の補足をしておきます。
 2013年9月30日の記事を再掲します:

 

 

 

法螺と戯言 : 再び欽明ー継体時代(3)

再び欽明ー継体時代(3)

 

 

 

 

法螺と戯言 : 欽明ー継体期(4)、男はか弱い性(さが、米国科学誌(1))

欽明ー継体期(4)
 万葉集三歌は、大王の狩猟風景を詠ったのではなく、戦争を控えて緊迫した情景を描写していると私は考えています。その事を確かめるべく、前回は三歌の反歌である四歌を考察しました。今回は、五歌がさらにその戦いを控えた緊迫感を伝えていることを書きます。

 

 

法螺と戯言 : 万葉集五歌(磐井の乱を詠った?),男は弱いよ(3)

万葉集五歌(磐井の乱を詠った?)
 前回万葉集五・六歌について、通常なされている解読を紹介しました。今回は、漢字を眺めながら、詠われている歌の情景を思い描いてみたいと思います:

 (題詞) 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集・五、六歌の左注

23:00 by 瓢箪虻

万葉集・五、六歌の左注
 2月26日の記事で、五歌に付された左注を考察しました。その際、書かなかったのですが、歌の内容と「歌の舞台」が四国である事は全くつながりません。どうしてこうした「題詞」あるいは「左注」が付されているのか、学者先生は誰も解説しません。つまり、「題詞」は、しかるべき理由がある、それを疑う事は「ありえない」からです。
後刻、この歌の解読を再度試みますが(すでに以前にそれをしていますが、れについては修正の必要を感じているので)、何故、この歌が四国を舞台と当時の編纂者が考えたのか、全くその背景を想像することはできません。多分、藤原不比等は既にこの世にいません。しかし、その威令が、この頃までにはまだ行き届いており、不比等倭国史観に違背するような万葉集の解読はまかりならんとの暗黙の束縛があったと想像しています。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集五・六歌解読作業の背景

22:30 by 瓢箪虻

 

万葉集五・六歌解読作業の背景
 3月7日以来、私の古代史考察は休んでいます。

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集五・六歌の背景(2)

万葉集五・六歌の背景(2)
 前回万葉集倭国で起きた出来事を歌で叙事していると書きました。この見方は、私の発想ではなく、梅原猛氏の著作から学んだものです。しかし、梅原氏といえども、万葉集一歌のとりわけ前半部分に配された歌群(本ブログでは初期歌群と呼びます)については多くを言及してません。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集五・六歌背景(3)、米国での放射性物質漏洩

万葉集五・六歌背景(3)
 万葉集に強い関心を抱きその解読を始めたのが、およそ六年前です。初期歌群は解読が難しい。その歌群に専門家・研究者達の解説、歌意が付されていても、そこからは情景が浮かんで来ません。解説者のみが力んで「かくかくしかじか」と多言を弄します。しかし、我々素人はタダタダ困惑するばかりです。しかし、前回例示した「山跡国」のように、使われている漢字に着目するとその意味が見えてくることに気づいたのです。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二歌補足〔2〕、宇宙からの地球への落下物(米国科学誌)

万葉集二歌補足
 二歌の解読を持ち出した理由はもう一つあったのですが、前回その事を書き忘れました。私が万葉集に格別の関心を抱くようになったのは2008年3月の九州旅行で佐賀に拠してあちらこちらを見聞したことがきっかけでした。それ以後何回か繰り返し万葉集の初期歌群の解読を試みてきました。その作業を繰り返すごとに新発見があり、少しずつ以前の解読を修正しています。
 
 この作業で私が最も注意したのが以下です。万葉集で用いられている漢字は、〔1〕「倭語の音表記」と〔2〕「倭語の訓(意味)の伝達」の両用で使われています。とかく「万葉仮名」を(1)の意味でのみ理解しがちです。しかし、漢字が本来持っている「意味」〔訓〕を活用することで、歌の詠み手の思いを効果的に聴者に伝える技法をも巧みに用いています。

 さて万葉集二歌について、当たり前のことと私が勝手に思い込んで、書き込まなかったことを念のために書いておきます。それは、この歌の舞台が奈良盆地ではなく、九州佐賀県であることです。殆どの研究者・学者さんは、子の歌に付された「題詞」に縛られ、歌の舞台は奈良盆地であると決めてかかります。其処から歌には「海原」と明瞭に詠み込まれていても、それは湖〔ミズうみ〔海〕〕であろうと苦し紛れの解読となるのです。したがって、海に生息するカモメの飛来をどう理解してよいか分からなくなるのです。さらには、高々標高100m強の天香具山から、金剛山系の向うにある大阪湾の海が見えるはずは無いのです。詳しくは本ブログで書いて来ましたが、この二歌で登場する天乃香具山は佐賀県中央部に腰を据える「天山」である事は間違いありません〔2012年8月22日~9月3日記事参照〕。

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集二・三歌(3)、小保方記者会見、石廊崎

 

二歌から三~十二歌へ(2)
 二歌と三歌をつなぐもう一つの「鍵」があります。二歌の「取與呂布』と三歌の「鳥撫賜」です。「取與呂布』の意味については歴代の学者・研究者がその解釈について苦闘してきました。どうやらそれらは整理できていないことを古語辞典(松村明他編、旺文社刊、1996)が白状しています。それによれば、
「とりよろう」 (上代語)語義未詳。(草木)でよそおふ意、足り備わる意、都に近く寄っている意、(村山が〕寄り合っているなどの諸説がある。〔万葉集一巻・二歌〕
とあります。

 鍵は「トリ』〔二歌の取、三歌の鳥〕です。私は2013年12月27日の記事で三歌の鳥は「TOLI」であり、これは隋書倭国伝に記載される「タリシヒコ」の「たり」であると書きました。と言う事は、二歌の「トリ」も子の歌が詠まれたときの大王の呼称であったと思われます。三歌の解読に当たって「トリ』は{たり}であり、それは、中央アジアに由来するのではないかとの仮説をたてました。

 

 

 

法螺と戯言 : 笹井氏記者会見(2)、万葉集二歌(補足・続)

 

万葉集二歌補足
 万葉集一歌と二歌をつなぐ鍵が「山跡国」、「八間跡国」つまり「跡」であることを以前書きました。「山」と「八間」はどちらも「ヤマ」ですが、この使い分けは、歌の詠み手の遊び心でしょうか?私は、二歌を詠む時点で「ヤマ」の「ヤ」の意味を詠み手が知ったということだろうと考えています。二歌を詠んだ頃、渡来族は九州に住む現地人の数の勘定法を知った、つまりそれが数字の「8」であったことを知ったのです。