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自動車整備、修理対応

万葉集:日本書紀:古事記:(30):20120730:栗本慎一郎氏の著作、「シリウスの都 飛鳥」万葉集4515(3・5・7・43)歌三歌

 

 

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51800776.html

「反原発」国民大規模示威をNHKが無視できなくなった経緯

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51801555.html

政府事故調査委員会報告

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51802318.html

サカ(スカ)から蘇我へ(4)

 

サカ(スカ)から蘇我へ(4)
 7月18日の記事で私は栗本慎一郎氏の著作、「シリウスの都 飛鳥」、の内容の一部を紹介しました。渡辺豊和氏の仮説が、かなりずさんに引用されているにもかかわらず、氏の「直感」とも言うべき主張には傾聴に値する点が少なくないことを書きました。氏は、ミトラ教ゾロアスタ教(拝火教)との関係に触れつつ、日本列島に伝わった弥勒菩薩信仰の弥勒はミトラ神ではなかったかと言います。広隆寺弥勒菩薩聖徳太子を模して作られたとされることから、聖徳太子の出自が中央アジアにありそうだとの想像を掻き立てます。しかし、氏の議論は、『直感』は面白いのですが、やや「書きなぐり」の感がり、丁寧に神々の出自をフォローしようと読み直してみると、実は氏が何を言わんとしてるのか見えなくなります。自然科学の論文でも時々こうしたことに出会うことがあります。論文の筋書きはすこぶる明快なのですが、個々の観測・計算結果とそれらの論理的つながりが、実は明確で無いなぞと言うことがあります(他人様のことを言えた柄ではありませんが)。そのことは、以下に書く「サカ」とヘロドトスが呼んだという「スキタイ」族との関連を議論した節でも起きています。氏の内部では、整合性が取られているのでしょうが、どうも一読者たる私にはすっきりと胸に落ちてきません。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51802631.html

サカから蘇我へ(5)

サカから蘇我へ(5)
次にウイキペディアが挙げるのがサカ・ハウマヴァルガー(ハウマ[1]を飲む、あるいはハウマを作るサカ)です。この部族の名前から私が即座に連想したのが万葉集一巻四歌です(2009年6月7日記事)。以下にそこで書いた記事を再掲します:

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51802784.html

31兆円の大盤振舞,サカから蘇我へ(6)

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51803430.html

国会議員を操る官僚、サカから蘇我へ(7)

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51804049.html

サカから蘇我へ(8、高昌=古四王=香々背男)

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51804728.html

サカから蘇我へ(10、万葉集二巻八十五歌(一))

サカから蘇我へ(10)
 前回、仁徳天皇が飯豊皇女を皇后にし、さらに九州日向で髪長媛を后にしたことを書きました。日向と書くと、宮崎県の日向と誰しも考えるところですが、そうではないらしい。福岡湾に福岡タワー近くで流れ込む室見川を遡上すると福岡歯大の辺りで西から流れ込む川があります。名前が日向川です。研究者の何人かは、この辺りが書紀で書く「日向」ではないかと言います。これは、大宰府から佐賀平野一帯を九州王朝の支配域と考える私の説には整合的です(例えば「古代史と日本書紀」 山田宗睦著、ニュートン・プレス、1999、73頁) 。

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51805018.html

サカから蘇我へ(10、万葉集八十五歌(二)、素人の万葉集解読法の例)

 

 

九歌の解釈で書きましたが、ここは温泉地なのです。「湯津盤村二」と続きます。「湯」という漢字が使われています。温泉ですから赤味をおびた硫黄質の蒸気の噴出で草は生えないのです(草武左受=くさむさず)。「常丹毛」の「丹」は赤色、「毛」は「(湯)気」を意味するのでしょう。

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51805450.html

サカから蘇我へ(12、仁徳天皇と万葉集一歌,『山」について)

 

サカから蘇我へ(12、仁徳天皇万葉集一・二歌)
 万葉集八十五歌で、もう一つ私が注目するのは、「山多都祢」の「山」です。大方の研究者は「山」を通常の「山河」を意味する「やま」と解しているようです。私は、「山」と言う名称の国、或いは領域の名称ではないかと考えています。九州北部に腰を据えた仁徳天皇は、自らの支配域を「山」(やま)と言う名称の国としたのだと思っています。それを示すのが万葉集一歌です:
 「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母」
 2009年4月3日の記事で、私の解読を書きました。
 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301929.html 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51805722.html

サカから蘇我へ(13、万葉集二歌、山常そして八間跡(一))

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51806039.html

サカから蘇我へ(14、山常そして八間跡(二))

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51806475.html

サカから蘇我へ(15、山常そして八間跡(三)),原子力委員秘密会

 

サカから蘇我へ(15、山常そして八間跡(三))
日本列島住民が、自らの言葉を漢字でもって表記する工夫を施した結果、つくりだしたのが万葉仮名です。其れは、以下の三つの作業です:

 (1)Aという漢字に訓読みを当てるに際しては、Aの意味を表す在来の現地語、B,を探します。そして、そのBの音をAの「訓読み」とするわけです。逆もありえます。
(2)Cという現地語を言い表す漢字Dを探し、其の漢字DにCという訓読みをあてる。これに加えて、
(3)格別な意味を持たない『助詞』は、其れと同じ音を持つ漢字、E,を用いる。

 前々回引用した万葉集二十二歌では、なんと「煮手」(にて)という単なる助詞にまで、意味を持たせてしまうという離れ業をやってのけているのです。つまり上の(3)の機械的適用に留まっていないところに万葉集の面白みがあるのだと思っています。繰り返しますが、助詞にまで意をこめる万葉仮名です。なんで無駄な「枕詞なんぞを使うでしょうか?「枕詞」は歌の欠かせない一部として解釈するのが、歌の読み手への礼儀と思います。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51806639.html

サカから蘇我へ(最終回、「積」の登場)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51807527.html

万葉集二歌再検討(仁徳天皇エピソード)

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51807814.html

天香具(高)山が不比等をして高天原を着想させた!

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51808558.html

古代における二王の存在(隋書東夷倭国伝(1))

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51808884.html

倭王太子「多弗利』(隋書倭国伝)を考える

倭王太子「多弗利』(隋書倭国伝)を考える
 何故、藤原不比等は、かって日本列島にあった権力者(古田武彦氏の言う「九州王朝」)が隋と交流があったことを隠そうとするのか?其の秘密が隋書倭伝に赤裸々に書かれているのです。其の鍵は「二王」です。
そうした経緯から、現在、本ブログでは古代王朝の「二王」を考えています。そのために隋書東夷倭国伝を先ずは読んでいます。ここまで、倭国伝を読んできて、一言二言、書き忘れたことがありました。些かの脱線をお許し頂き、それについて触れておきます。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51809201.html

前回記事の補足(記紀献上・奏上に至る言論封殺)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51810252.html

九州に拠した権力の二王(1)

九州に拠した権力の二王
 古田武彦氏は「九州王朝」という表現を使い、それでもって、自らの古代史観を主張してきました。しかし、これから書くことからいずれ明らかになりますが、「王朝」という表現が実は適当ではありません。其れをはっきりと示しているのが万葉集三歌です。
『八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里』

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51810719.html

九州に拠した権力機構の二王(2)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51810997.html

九州に拠した権力機構の二王(3)

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51811315.html

九州に拠した権力機構の二王(4)

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/b/8/b8f1814b.jpg

 私は、この表を作ってみて大変驚きました。大文字の天皇在位年数と小文字天皇在位年数の和が同じになるのです。これぞ、二王の存在の証ではなかろうかと思っています。例えば、期間Aです。17代履中天皇から22代清寧天皇までの期間について考えてみます。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51811785.html

「戦後史の正体」と【陰謀論】(郷原信郎氏のHPより)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51812060.html

九州に拠した権力機構の二王(5)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51813052.html

倭国の二王(6)

 

 一方、この海戦を旧唐書百済記で次のように書きます:
%%%%%旧唐書記事より
 時龍朔元年三月也。於是道琛自稱領軍將軍,福信自稱霜岑將軍,招誘叛亡,其勢益張。使告仁軌曰:(中略) 二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,(中略)扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶餘豐之衆於白江之口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,賊衆大潰,扶餘豐脱身而走。偽王子扶餘忠勝、忠志等率士女及倭衆並降,百濟諸城皆復歸順,孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶餘隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘衆。
この文意については、柿のHPで詳しく議論されていますので其れを引用させていただきます:
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/ronten/7/kudara3.html 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51813697.html

復興予算を掠め取る官僚に怒っ!!

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51813854.html

倭国の二王(8),日米地位協定

 

少々古い10月8日東京新聞朝刊の記事です。腹立たしいことこの上なく思います。まさに孫崎享氏が著書「戦後の正体」で、政治家を試す試金石として、安保条約の大きな要素である「地位協定」を挙げています。其の協定に対する姿勢こそが、自国を憂う(うれう)ことが出来るか、それとも自国を売ることが出来るかを政治家に問うに値する課題です。そして、まさに未だに日本国政府は子の試金石に耐え得ない、言葉を変えれば国民の安全に目を向けない姿勢をとり続けているのです。

 

倭国の二王(8)
履中天皇の即位年、言葉を変えれば仁徳天皇の退位年がこれまでは遅くとも五世紀初めとされてきました。しかし、重複した編年を考慮すると、それは6世紀のはじめ頃に位置づけられることは興味深いことです。六世紀初頭から半ばの時期に私は着目しています。そこで、これまでも繰り返し掲載してきたシリウス星方位による年代決定法による年代比定をここで再掲します:

 

 

scilabのプログラムはまだ見つかってません。

無ければ、計算式を見つけて入力するしかないようだ。

 

 

シリウス(αCMa) α= 6h42.9m δ= -16゚39' (B1950.0)
シリウス(αCMa) α= 6h45.2m δ= -16゚43' (J2000.0)

 

024*1500=36°

2010:510+1500

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51813900.html

倭国の二王(9)

 

 上に書いた過程とほぼ並行して異なるルートが開拓されていた節があります。それを示すのが埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された鉄剣です。この鉄剣に刻み込まれた銘に「ワカタケル」と読み取れる文字が刻まれていたことはよく知られています。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51815594.html

倭国の二王(10)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51816075.html

つくば市選挙結果、大隈弥五郎ドン伝説

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥五郎どん

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51816982.html

アイヌは琉球人と近縁,弥五郎ドン(2)

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51817502.html

倭国の二王(12)、「大学生の数学力でわかる、弦理論」

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51817797.html

倭の二王(13),日比谷公園使用禁止

 

倭の二王(13)
 前回、讃、そして其の弟である珍が倭国王に叙せられた(宋がお墨付きを与えたということで、珍自身は自らが倭国王であることを自認しています)ことを書きました。そして、宋書には濟が登場するのですが、この濟は珍とどのような関係にあるのかは記されていません。そのことを念頭に置きつつ、宋書を読み進めます:
%%%%%宋書転載(2)
濟死、世子興遣使貢獻。
 世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51818587.html

倭の二王(14),福島沖魚の放射能汚染がとまらない(2)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51818906.html

地震学者7名等への有罪評決(Italy Earthquake,nature10月23日号)

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51819224.html

倭の二王(15)、復興予算流用して逃亡

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51819741.html

倭の二王(16、宋書「武」王の活躍),政府資金による研究成果の公開

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51819994.html

「倭武尊」英雄譚は宋書倭王「武」の活躍を基にしている

 

倭武尊の物語は宋書倭王武の活躍を基にしている
 本ブログの特徴の一つは脱線です。ある主題にかかわる諸事で気になることがあると、それを書き留めておきたいと思う故です。今回も其の脱線の続きです。
倭国の政(まつりごと)に携わっていたと思われる二人の王の事跡をたどる過程の中で、宋書、および梁書が記載する「五王」を現在考察しています。この「五王」の存在。「日本書紀」、「古事記」は口を拭って知らん振りをしています。そこには、「日本書紀」、「古事記」の編纂者の政治的思惑があったに違いないと、私は思っています。 しかし、古今の古代史研究者はその知らん振りの政治的意図に言及せず、見当違いの議論をしてきた、ないしは現在もしています。曰く、五王は「履中天皇から雄略天皇」のどれかである。または雄略天皇の和名が「タケル」であるから宋書に登場する「武」王かもしれないなど、およそその道一筋古今東西の文献に接してきたとは思えない議論を始めてしまいます。

 

 

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倭の二王(17、倭の五王の謎)

 

 

 

 

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倭の五王(2、前田説)、TPPは日本を滅ぼすため(ウイキリークス)

 

倭の二王(17)
 古代史の専門学術雑誌にまで閲覧の範囲を伸ばすことはできませんが、幸い「応神天皇の秘密」(安本美典著、廣済堂出版、1999)が前田直典氏の主張を簡潔にまとめています。それをここに転載させて貰います(149-152頁)。
%%%%%前田氏の主張(1、安本氏著書より)
前田直典氏の新説

 

 

 

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「日本未来の党」発足を喜ぶ、倭の五王(3、前田説考察)

 

倭の五王(3、前田説)
 前回書いたように、安本氏は前田氏による「讃王=応神天皇説」の論拠として五点を挙げています。其のうち既に二点を紹介しました。今回は残る三点のうち、二点を紹介し、考察してみたいと思います:
%%%%%前田説(つづき)
(3)「梁書」によれば「彌」は『済』の父である。よって「武」王の父が「済」、「済』王の父が「彌」である。「武」王を雄略天皇とすれば、雄略天皇の父が允恭天皇、その父が仁徳天皇である。従って倭王「彌(珍)」は仁徳天皇である。仁徳天皇倭王・武(雄略天皇)から見て祖父なる彌なのである。ここから「讃」王は応神天皇とせざるを得ない。
 

 

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倭の五王(前田説を考えるー四―)、外国科学誌が見る原発問題

 

 倭の五王(前田説を考えるー四―)
%%%%%安本氏による前田説引用(3)
前田氏による「讃=応神天皇」説の五番目の論拠が下記です:
(5)応神天皇の和風諡号は「ホムタワケのミコト」である。「ホム)と言う言葉は古くから賛美の意味で使われている。賛美の意味の「ホム」は日本書紀の神代紀にも万葉集にも見えている。倭王「讃」という名称は応神天皇の名の「ホム」を簡約したものだろう。これは雄略天皇の「ワカタケル」の「タケル」を簡約して「武」としたのと同一であろう。
%%%%%前田説引用終わり

 以上、前々回(二点)、前回(二点)そして今回の一点、あわせて五点が「讃=応神天皇」説の論拠です。安本氏は、前田氏が以上の五点について論証不足ではあるが、歴史家としての直観力に衝撃を受けたと書きます。すでに、書きましたが、終戦直後の劣悪な研究環境の下で前田氏の説は発表されました。当時は、学会の大勢は仁徳天皇後の諸天皇に「倭の五王」を当てはめることで躍起となっていたわけですから、前田説は衝撃であったわけです。

 さて、上に書いた五番目の指摘は、名前に関するものです。私は、天皇の日本の名前については「和風名前」と書き、あえて「和風諡号」と書いてきませんでした。その理由は「諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこととされるからです。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。」のです。しかし、「和風諡号」は、無くなった貴人に死後諡られるばかりでなく、生前の名前にも使われるようです。それを今回記事の末尾に添付しました。

 

 

 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51821766.html

、「動物は地震を事前に検知できるか?」(昨年12月米国科学誌より)

 

 地震に先立って動物の異常な挙動を記載した最も古い文書はローマの歴史家アエリアンによるもので紀元前373年である:それによれば、コリントの湾沿岸の町Helikeを破壊した地震の発生5日前に、様々な動物、ネズミ、イタチ、ヘビ、ムカデや虫たちが地上に出現し、都市から逃れた。この文書以後、動物の挙動を地震と結びつけるようになった。
日本の神話によれば、地震の原因は地下に生きるナマズNamazuだ。彼奴(なまず)が尻尾を動かすと全地球が震える。不運にも、彼奴はトラブルメーカと考えられている。しかし、大昔には、彼奴は危険の事前察知をし、差し迫った破壊を警告し、危険なトカゲを飲み込むことで更なる災害を防いだ。

 

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/2/e/2efc2d7a.jpg

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 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51822249.html

 

桑名市長選で「未来」圧勝,倭の二王(18、讃王、珍王を考える)

 

 

倭の二王(18、讃王、珍王を考える)
 二王やら五王やら、紛らわしいことを書いています。「二王」これは、現ブログ管理者の古代史観のいわば幹に当たる部分です。五世紀から七世紀半ばまで、倭国(七世紀の半ばには日本列島の大部分に影響力を持っていた)は、二人の王によって支配されていたと考えられるからです。本ブログで其の論拠を繰り返し書いてきました。先ずは、(1)万葉集三歌の「朝庭」、「夕庭」です。そして(2)倭国が隋に派遣した使節が皇帝の面前で陳述した言です(隋書倭国伝)。そして、日本書紀の編年、とりわけ(3)允恭天皇から天智天皇の統治期間の二重性です(前々回記事に付した表参照)。
 私は、この二人王制が五世紀初めから半ばにかけて始まったのではないかと想像しています。この時期は、大陸「宋」国の史書倭国伝が「倭国」を統治していたとされる五王を記載しています。これが「五王」問題です。そして、最近数回の記事で、この五名の王のうち、其の実像が二王「興」王、「武」王について見えてきました。残る三王のプロフィールを何とか探ってみたい。これが、以下に書く私の想像です。 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51822554.html

 

日本が居ないTPPは無意味(米国)、倭の五王(19、「珍」王--1-)

 

 

 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51823099.html

2012年12月7日17時の地震

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51823057.html 

 

倭の五王(20、珍王(2)),大戦直後の名映画二つ

 

倭の五王(20、珍王(2))
 古事記では、神武天皇東征の概要が記されていたのに比し、日本書紀では其のあらすじ(骨格)に肉付けをしています。つまり脚色をするわけです。驚くべきことに紀元前660年の大昔の出来事の発生日時まで書き込まれています。従って、日向からの出発に遡っての引用は長くなるので「ナガスネヒコ」との出会いの直前からのみ以下に転載します。
%%%%%日本書紀からの転載
神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)四月甲辰(九)》夏四月丙申朔甲辰。皇師勒兵歩趣竜田。而其路狭嶮。人不得並行。乃還更欲東踰胆駒山、而入中洲。時長髄彦聞之曰。夫天神子等所以来者。必将奪我国。則尽起属兵。徼之於孔舍衛坂。与之会戦。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戦。天皇憂之。乃運神策於沖衿曰。今我是日神子孫。而向日征虜。此逆天道也。不若、退還示弱、礼祭神祇。背負日神之威。随影圧躡。如此、則曾不血刃。虜必自敗矣。(以下略) 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51823347.html 

検察審査会、倭の五王(21、讃王は山王か?(1))

 

倭の五王(21、讃王は山王か?(1))
 前回、河内王朝と「讃」王、「珍」王との関係を考察すると書きました。このお二人の王の活躍舞台が四国の北東そして紀伊水道を挟んで大阪の南部です。大阪河内に近い、又は河内そのもであるからです。この議論の前に、「讃」王について触れておくべきことがありました。 

 

 

 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51823647.html

村田元大使が鳴らす警鐘、倭の五王(22、讃王を再考す(2))

 

倭の五王(22、讃王を再考す(2))
 山王神社日枝神社)で祀られる神は「大山咋神」(おおやまくいのかみ)です。「昨」を何故「クイ」と音させるのか?学者さん方は次のように説明します。「昨」は「柵」であった。「柵」は幾本もの「杭」からなっている。かくして「昨」転じて「クイ」となった。なんともこじつけ気味の説明です。もっと明快な説明が出来るのです。そこで、この神が登場する
古事記を見てみることにします。
%%%%%古事記転載
次生山神。名大山津見神。次生野神。名鹿屋野比賣神。亦名謂野椎神。〈 自志那都比古神至野椎并四神。 〉 此大山津見神野椎神二神。因山野持別而生神名天之狹土神。
文意:岩波文庫古事記」22-23頁
(三柱の神に引き続き、多くの神が生まれ、やがて国土も生まれた。引き続き、河海の神が生まれ、風の神が生まれた)。 次に山を作る神が生まれた。名を大山津見神と言った。次に野を創る神、名を鹿屋野比賣神(かやのひめ)又の名を野椎神(のづち:岩波文庫のふりがな)。この大山津見神と野椎神の二神が山と野原を分担して生んだのが天之狹土神である。
%%%%%転載終わり
一方日本書紀では、「山神等号山祇」(山の神などを「山祇」(岩波文庫(一)40頁では「やまつみ」とのフルガナ))と呼んだ」と書きます。

さて、この神に付きまとう「昨」または「祇」に隠された謎を、ウイキが問わず語りに書いています:
%%%%%ウイキが書く大山昨神 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51824132.html

46回総選挙に思う、倭の五王(23、讃王の墳墓が「ササギ」)

 

倭の五王(23、讃王、珍王)
 火を意味する「アビ」(又は「アピ」、「アミ」)とサカ族の「サカ」が結合し「アサカ」となり「アスカ」と変じたのだろうと以前書きました。この「サカ」に漢字を充てるに当たって「積」(シャク又はシャカ)を用いたことから、さらなる変形に拡大し、そこから「アズ(ヅ)ミ」も生成された。さらには「ヅ」が抜け落ちて、万葉集二十三・二十四歌に登場する「麻績」王が「オミ」となったりします。これも漢字の音に忠実に読めば「アサカ」であることは明らかです。この「アズ(ヅ)ミ」については一部研究者は九州に「アズミ」族と呼ばれる一族が居たらしいとの議論をします。しかし、「アズ(ヅ)ミ」の出自については私の考察が合理的とおもっています。

 全く同様のことが「サン」王とサカ族の「サカ」を結合する事でなされ、「サンサカ」ひいては「ン」が抜け落ちて「ササカ」(又は「ササク」)が生まれたと思っています。藤原不比等倭国の歴史を編纂するにあたり、「サン」王の隠蔽を目的として、この「サン」に「山」という漢字を充てたのだろうと思います。こうして古事記が書くところの「大山昨神」が仕立て上げられたのです。ご丁寧にも後世の学者が「昨」に「クイ」なる奇妙な「音」を付したため、史実が遠ざけられたと思っています。
 サカ族の出自を持つ「讃」王、つまり「ササク」が死去し、巨大な墳墓を構築したのです。民衆はこの墳墓を「ササク」(後に転じて「ササギ」)と呼んだのだろうと思います。現在、大阪府堺市にある「仁徳天皇陵」がそれであろうと思います。仁徳天皇の和名を日本書紀は「大鷦鷯天皇」(おおささぎ、古事記では大雀命)と、書きます。藤原不比等は、あの巨大な天皇陵が「ササク」と呼称された「サン」王の墳墓であることを知っていたのです。そして、この王に「仁徳天皇」を充て、其の幼名も大鷦鷯としたのです。だからと言って、仁徳天皇を讃王と断ずることは早計かもしれません。「ササギ」は本来固有名詞であって、貴人の墓つまり「陵」を意味するものではなかったのだろうと考えています。

 こうして、讃王の巨大墳墓が大阪河内に造成されたことから、「河内王朝」の存在が俄然浮かび上がってくるのです。河内王朝の考察をする前に、ニ三気づいたことを書いておきます。
先ずは古事記の記述が興味深いのです。
%%%%%古事記(再)転載

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51824435.html

 

 

倭の五王(24、祟神天皇朝)、ヒグス粒子発見が、更なる知見深化に絶望(米国科学誌、11月号)

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51824760.html

出口調査は違法だ!!、倭の五王(25、三輪王朝)

 

 倭の五王(25、三輪王朝)
 前回、三輪王朝を考察して、纏向(まきむく)遺跡の建造物の特異な方位を書きました。三輪王朝は祟神天皇に発すると水野祐氏は主張します。そこで、祟神天皇の墳墓とされる柳本行燈山古墳を観察すると、そこにはシリウス星信仰の名残は見えません。所で、かっては、現在の景行天皇の墳墓(渋谷向山古墳)が祟神天皇の墳墓とされていたそうです(下の写真)。

 

 

 

 

 なんと、前方後円墳の前方の陵辺(西側)がほぼ南10度東(北10度西)で纏向遺跡建造物の方位と同一です。どうやら、三世紀半ば前後に北アジア又は中東からの騎馬民族が、この奈良盆地に移住したことは間違いないことのようです。この方位を特定するための目印は何であったか?少なくも、夏至の真夜中に南の星を観測できるほどの高い場所で無ければなりません。地図から推定するに明星ガ岳と思われます。そこで、纏向との位置関係を算出したものが下記です:
msg = (0) d=47.7042(km),a=172.4269,b= 352.4655
 この山の近辺から奈良盆地を見通す事ができたようです。それが下の写真からわかります。私自身はこのあたりを訪ねたことがありません。
この写真は(http://tozanbiyori.whitesnow.jp/misen2/110713_081344.jpg) から拝借しました。 

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51825026.html

継体天皇考(1)、地球温暖化防止技術(米国科学誌、14 Dec.号)

倭の五王(25、継体天皇考(1))
 前回、日本書紀解読の世界に革命的転換を引き起こした森博達氏の著書を紹介したため、三王朝交代説に登場する継体王朝についての私の考えを書き損ねました。以下に其の事を書きます。河内王朝の事を沢山書きたいと思っており、第三王朝である「継体王朝」はさらっと書き流すつもりでありましたが、どうやら見込み違いで、書かねばならない 

 

 

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https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/a/2/a2dfd447.jpg

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51825380.html

「未来の党」の内紛を憂う、継体天皇考(2)

 

継体天皇(2)
 継体天皇の出自の謎に足を突っ込んでしまいました。幾つかの可能性を前回あげましたが、どれも決定打とはなりません。そこで、「継体王朝(私に言わせれば、欽明王朝)」の始まりが、「隋」建国時期と重なっていることが出自に関わっていると仮説することにします。二つの可能性が考えられます:
(1)大陸での隋の建国に伴って大陸又は朝鮮半島から押し出された有力者とその側近が、(亡命?)福井県に辿り着いた。其の有力者が「継体」天皇として担ぎ上げられた;
(2)隋が建国の勢いをかって、倭国に支配の手を伸ばすべく軍事ミッションを送った。

 日本書紀「継体」紀を読む限りでは、(1)は、考え難い。なぜなら、亡命先の倭国で、現地勢力と覇を争うことは考え難いからです。とすれば(2)であったのではないか、私にはそのように思えます。以下その理由を書き連ねます。 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51825693.html

継体天皇(3)

 

継体天皇(3)
 宋書倭国伝が記述する倭国「武」王は487年に梁国を訪れた僧侶によっても、言及されています。さてこの「武」王体制がそのまま西暦535年ごろに始まった允恭―履中体制にひきつがれたのでしょうか?それを推量できるかもしれない記事を日本書紀十七巻に見ることができます。
%%%%%日本書紀巻十七・継体紀二十五年引用
継体天皇二五年(辛亥五三一)二月》二十五年春二月。天皇病甚。
継体天皇二五年(辛亥五三一)二月丁未【七】》丁未。天皇崩于磐余玉穂宮。時年八十二。
継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子【五】》冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈 或本云。天皇、二十八年歳次甲寅崩。而此云。二十五年歳次辛亥崩者。取百済本記為文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅営乞毛(紀では横棒一本の漢字)城。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子・皇子、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。 〉
文意:(岩波文庫(三)208頁より)

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51825927.html

継体天皇(四),最近五千年間ヒト遺伝子変化(nature, 28 November 2012)

 

 

継体天皇(五)
山王神社の事を書いた頃から、本ブログを読んでくださってる方の数が増えてきました。私のブログは日本書紀古事記そして何よりも万葉集をそのまま読んだ上で、必要に応じて、中国の史書等を参照しつつ書いています。国文学および古代史の大家といわれる方々の言説に惑わされず思ったままを書き連ねています。言葉を変えれば、先人の業績にしかるべき敬意を払わない、つまり必要な勉強をしていないという言い方も可能です。なにはともあれ、読んでくださっている方々の増加に応えたいと思うがゆえに、再び自制が効かず記事が長くなっています。前回記事も「あれも書きたい、これも書きたい」との思いが先走り長くなってしまいました。結果として読みづらくなってしまったことをお詫びいたします。これからは、「長すぎるブログ記事」との自戒を心にとどめます。

前回書いたことは、「継体天皇」にまつわる大方の謎(1)何故20年近くも宇治近辺でウロウロせねばならなかったのか;(2)磐井の乱の歴史的意味は何であったのか?を解く重要な鍵を歴史研究者に提供したものと私自身は自負しています。繰り返しますが、其の回答は「隋の建国」であった。歴史研究者がこの鍵を見出せなかった理由、それはただ一つ、藤原不比等倭国の歴史記述の時間軸を二倍に引き伸ばしていたことなのです。