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万葉集:日本書紀:古事記:(3):

万葉集:日本書紀:古事記:(3):

 

 

法螺と戯言 : 推古紀考察(1),米国地震早期警戒システム(nature誌)

推古紀考察(1)
 これから考察しようとするのは、二王制の晩期です。この時期、東王(奈良盆地に拠する権力)は推古女帝、西王(九州似拠する権力)は敏達から皇極女帝までの五代の天皇です。その期間は西暦625年頃から661年頃と考えています。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 泉湧寺の見識

泉湧寺の見識
 日本書紀を編纂する際、実際の時間経過を二倍に引き伸ばす「捏造」が施されています(これまでにもこの事を繰り返し書いてきました)。それは、前回掲載した表から明らかなのです。しかし、何年から何年までがその「捏造」期間に該当するのかを決めるという問題が残っています。それを、決めない事には倭国の歴史編年作業はできません。勿論、この議論も、例えば、2013年4月12日の記事で行ってきました。以前考察したことに、いくつかの補足をしておきたいと考えています。そこで、前回書いたことを繰り返します:

 

 

法螺と戯言 : D期(東・推古、西・敏達)考察(1)、2013ノベル賞(2)

D期(東・推古、西・敏達)考察(1)
 先ずは、これまでも繰り返し掲載する歴代天皇とその在位期間です。四つの期間に区分され、夫々の区分では、D=dの和 , 大文字天皇の在位期間は小文字天皇在位期間の和になります。

 

 

 

法螺と戯言 : 推古紀に先行する欽明ー継体期(1)

推古紀に先行する欽明ー継体期(1)
 前回、推古紀の続きを書いたのが10日前です。なんやかやでその続きを書くことが出来ませんでした。そうこうするうちに、私の気分が変わってきました。推古紀を考察する過程は、その前の時期をしばしば引用せねばならないからです。文章も、そのためにギクシャクしてきます。そこで、いっそのこと、ここで推古紀を中断して、その前の欽明―継体紀に話を戻し、その継続として推古紀を考察したほうが、話の筋が見えてくるのではなかろうかと考えました。というわけで、これまでに用意してきた稿を一旦廃棄することとします。

 

 

 

法螺と戯言 : IPCCの内部討議とその結果公表(1),欽明ー継体期(2)

22:30 by 瓢箪虻

欽明ー継体期(2)
 隋書倭国伝は、開皇二十年(600年)、倭国に二王が並存することを指して、それが「不合理であり改めるよう」、隋皇帝が倭国に訓令したことを記しています。学研大漢和辞典藤堂明保編)によれば「訓令」とは「上級官庁が下級官庁に法令の解釈や事務の方針について命令すること」とあります。
 とするならば、この言い方は、あたかも倭国が大陸政権の「属国」であるかのようです。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集三歌、IPCC内部討議(2、雑誌natureより)

欽明-継体期(3)
 西暦600年、隋の皇帝が倭国使節にたいして「二王制は不合理である。改めよ」と「訓令」し、それに反発した倭国側は7年後の再度の使節派遣に際し「日出處天子致書日沒處天子無恙」の書を持たせました。
 どういうものか、日本の「正統」な古代史研究者はこの「二王制」を真正面から論じません。大きな理由の一つが「日本書紀」の記述と整合しないからであろうと思われます。「隋皇帝の指摘が真]と仮説して日本書紀なり、古事記なりを考察・考究し、その上で「二王制」を排するというのであれば、そうした研究者の真摯な学究姿勢に打たれるのですが、どうもそうした話は聞きません。一方で大陸権力の正史を真実とするわけですから、素人たる私のような歴史愛好家は釈然としません。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 二王制を詠う万葉集三歌、天才のDNA(nature誌、10月29日号)

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51870169.html

 
 

二王制を詠う万葉集三歌
 万葉集三歌は「八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之」で始まります。ここに登場する「庭」を私は深く考察するべきと、これまでの過去記事で書いてきました。先ずは「庭」は万葉集二歌で使われています。この歌は「国見の歌」として、よく知られているのですが、その歌意は誤って解読されています。理由は歌の舞台を取り違えているからです。即ち、古来の解釈に従って奈良盆地にある標高200m足らずの香具山から奈良盆地周辺を「国見」したとされます。こうした誤りを基に、米国の日本語研究者が万葉集を「英語訳」したことが歌の解釈での惨状を「拡大しました。そのあたりの事情を例えば2012年8月22日の記事に書きました。

 

 

法螺と戯言 : 「朝の王」、「夕の王」(1)、天才のDNA(2、nature誌、10月29日号)

23:00 by 瓢箪虻

「朝の王」、「夕の王」(1)
 先ずは万葉集三歌の再掲です:
『八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里』
 勿論この歌には「定説」と思しき解読が施されています。しかし、その「解読」があまり意味を成さないことは、 私のような素人ばかりでなく、この道一筋の学者さんも、色々な機会に「こっそり」とその本音を吐露しています。言い換えると、万葉集の一巻の一歌から二十八歌までは、専門家の手になる解読ですら「何を詠ったのか」不明と言うのが実情なのです。

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集三歌「取撫賜」を考える

万葉集三歌「取撫賜」を考える
 三歌の冒頭部分を再掲します:
「八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之」

 

 

 

 

法螺と戯言 : 「取撫賜」と「多利思」比狐(2)

「取撫賜」と「多利思」比狐
 前回、隋書倭国伝が書く「多利思」の「利」は「Li」であって「Ri」ではないと書きました。気になったので、学研大漢和辞典藤堂明保編)で、中国語で「Ra,Ri,Ru,Re,Ro」と発音する漢字を探してみました。「日」などわずかが「R」なのです。とするならば、倭人が隋皇帝の前で「タリ」をどのように音した時、隋側の皇帝、書記官は「Tali」と聞いたのでしょうか?私は「ゐ」ではなかったろうかと考えています。魏志倭人伝に「末蘆国」が登場します。「蘆」は「Lo」ですから、魏国の調査官の発音は「ま(む)つヲ』であったと思います。

 

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 倭国東王万葉集三歌「 夕庭 伊縁立之」(1)

倭国東王万葉集三歌「 夕庭 伊縁立之」(1)
 七世紀初頭の倭国古代史を理解する作業は、ややこしいパズルを解く、もしくは宇宙起源に潜む深い謎の解明にも匹敵するのではなかろうかと思ったりします。その一番の因は前回書いたように、隋書倭国伝に登場する倭国王の名前がなんと紀元二世紀(日本書紀編年では)に登場することです。この登場の様子が、まことしやかです。大王の後を継いだ太子が「稚』として、日本書紀でもそのまま「使われて」いるからです。何故、藤原不比等はこうした、大陸の正史に明るい教養ある人物から診たら「不自然(オカシイ)」と思うような「歴史改竄」を倭国正史たる日本書紀にもりこんだのでしょうか?
 こうしたトンチンカンな記載を取り繕うことを狙ったのか、日本書紀欽明天皇継体天皇の嫡子と書きます。ウイキペディアは嫡子を次のように説明します:

 

 

 

法螺と戯言 : 万葉集三歌「「伊縁立之(たつの)」(2),朝日新聞

22:30 by 瓢箪虻

万葉集三歌「「伊縁立之(たつの)」(2)
 前回、日本書紀巻二十二の推古天皇十四年(六〇六)紀(岩波文庫(四)、106頁)の記事を紹介しました。この記事に登場する「鞍作鳥」とは、誰か?
 この記事に先立つ推古十三年に次の記事があります:
推古天皇十三年(六〇五)四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同発誓願。以始造銅・繍丈六仏像、各一躯。乃命鞍作鳥為造仏之工
文意:天皇が皇太子および諸臣に行動して願いを発するよう詔をした。そのために銅・繍丈六仏像、各一躯を造る事を開始した。鞍作鳥にその造仏を命じた。
 さて、その鞍作鳥こそは、法隆寺金堂に座す釈迦三尊像の背に掘られた銘文に登場する人物であると歴史家は考えます。2013年11月11日の記事を再掲します:

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 鳥撫賜(鞍作鳥)と伊縁立乃(多須那)(2),チバラギの地震

22:30 

by 瓢箪虻

 

鳥撫賜(鞍作鳥)と伊縁立乃(多須那)
これまでに書いてきた対応関係を以下にまとめて見ます:
(1)名太子為利歌彌多弗利―――――倭王姓阿毎、字多利思比孤(隋書倭国伝)
(2)稚足彦(成務天皇)―――大足彦(景行天皇)、いずれも日本書紀
 注:(1)と(2)は密接に関係しています。
「多弗利」を『タフリ』と音するとするならば、現代ペルシア語字典によればそれは「稚』(おさない)を意味するのです。ペルシャ語事情には詳しくありませんが、「稚」(おさない)と言う語は人間生活では頻繁に使われるがゆえに古代にあってもその「語」にはそれほどの変化は無かったろうと私は考えています。
 一方「多利思比孤」はそのまま日本書紀に「大足彦」として登場します。但し、隋書ではこの人物は西暦600年に登場するのに対し、日本書紀ではなんと西暦二世紀半ばに登場することとなります。
この王の息子が「稚」を伴っている。とすれば、上記の対応関係は明確です。言い換えれば、藤原不比等日本書紀編纂の過程で、倭国の歴史を捏造し手射ることの有力な証拠であると断じて良いと思います。

22:30 by 瓢箪虻

 

 

法螺と戯言 : チバラギ地震(2),鳥撫賜(鞍作鳥)と伊縁立乃(多須那)(2)

 

鳥撫賜(鞍作鳥)と伊縁立乃(多須那)(2)
前回、五つの父子関係を列記し、その四番目として以下を挙げました:
(4)鳥撫賜(鞍作鳥)――伊縁立乃(多須那)の息子(万葉集三歌、括弧内は日本書紀での対応人物)
ここで登場する人物は万葉集三歌に歌われる大王です。そしてこの名前を持った人物が、法隆寺金堂に座す釈迦三尊像の背に記された銘文に止利仏師として記されています。一方、括弧内に登場する人物は日本書紀に登場します。藤原不比等は言葉を濁しますが、止利仏師と鞍作鳥は同一人物であることは間違いないと思えます。この二人が父と子であることも示唆されています。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 2013年ベスト自選記事

22:30 by 瓢箪虻

 

一位:「魏志倭人伝は「このように」読めば良い!」、8月2日http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51857092.html
 邪馬台国論争の一つの論点は、それが九州か近畿であったか?です。その論争の起点は魏志倭人伝の「あの一節」の解釈です。それを「見事に」説き明かしたと自負しています。

二位:「邪馬国連邦(台)は「番号国」から成っていた)、8月5日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51857270.html
 魏志倭人伝に登場する倭の国名。実はそれは「数字」であったとの事実を発見しました。是によって、やがて来る壬申の乱での天武天皇の伴侶の謎がとけるやら、副産物が沢山です。

三位:「史実だった「国譲り」神話」、7月29日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51856773.html
 何故、天武が信州信濃に追放されたのか?武御名方命の諏訪逃亡説話はこのことを古代説話として古事記に取り込んだのです。
四位:「持統天皇吉野詣時系列から検出される千日周期」、7月15日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51854994.html 
 持統天皇は、幼名そして死後の諡号を二つ持っています。それは、天武の実際の伴侶をも持統天皇にしてしまったからです。その解明の発端は持統天皇の吉野詣でです。

五位:「古代史編年(35、万葉集二十九歌(2)、「淡海」は「琵琶湖」にあらず)」、7月10日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51854369.html
 万葉集二十九歌に詠まれる「淡海」を「琵琶湖」と読むことから、誤解が生じます。是は、狗奴国と投馬国の境界、現在の熊本、鹿児島県堺の丘陵地です。

六位:「七世紀前後の編年史私見(1)」、4月10日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51840735.html 
 日本書紀が語る編年史をつぶさに眺めると、天皇の在位期間に、見事な規則性が見出されるのです。

七位:箸墓古墳年代考(4、アサカ聖方位),」、3月4日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51835748.html
 近畿地方には、アサカ=アスカと命名されるべき直線状配列が存在します。それは箸墓古墳を含みます。その構築は七世紀であり、このことからも箸墓古墳卑弥呼の墓ではありえない事がわかります。

八位:「狂心渠(8,運河=カハス)、」、2月22日 
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51834336.html
 斉明天皇紀になされたという土木工事の一つの現場は奈良盆地ではなく、九州天山の世禄から嘉瀬川への運河掘削です。

九位:「卑弥呼の死(2、西都原古墳群(宮崎県)))、8月26日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51860493.html 
卑弥呼の巨大な古墳は現存する西都原古墳であったことを論じています。

十位:「狂心の渠(4、田身嶺は?))、2月13日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51833059.html
 日本書紀にしばしば登場する「高安城」の考察から田身嶺は、奈良盆地を大阪湾から隔てる生駒山系の地であったことを論証しています。

番外:「狂心の渠(3、「箱庭」古代史),」、2月11日
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51832631.html 
 是は、番外と言うよりは、私の古代史探求でしばしば遭遇した発見です。つまり奈良盆地に存在する山、川、場所などは、その殆どが九州の地から移されたことを論証しています。