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万葉集:日本書紀:古事記:(2):

万葉集:日本書紀:古事記:(2):

 

 

 

 

法螺と戯言 : 彌奴国(2)

彌奴国(2)
 前回記事で、九州糸島半島・志摩の発掘について触れました。その詳細が掲載された朝日新聞記事クリップを九州の知人が送ってくださいました。まずは、その記事を紹介します。

 

 

 

法螺と戯言 : 彌奴国(3),森浩一氏を悼む

彌奴国(3)
 前回のブログ記事、中途半端のままです。深夜まで続く酷暑で、脳がドロドロの液状になってしまいました。その続きを書いている今も、気象条件は最悪です。年齢を重ねるにつれ、愚痴っぽくなります。お許しください。

 魏志倭人伝は、奴国の次に不彌国を書きます。これが、両国の隣接関係を意味していると考えます。一方、この両国は何がしかの政治的・戦乱的事件終結後、「彌国」(彌馬国の可能性もある)を分割統治したのではないかと想像します。理由は「彌奴国」、「不彌国」つまり、「三・七国」、「二・三国」の存在です。どちらの国も「彌=三」を名前に含むからです。これらを前提にすると、謎の消滅した「三(彌)国」と「奴国」、「不彌国」の位置関係は下図のようであったろうと思います。

 

 

 

法螺と戯言 : 神功皇后と応神天皇にまとわり付く死、集団的自衛権

神功皇后応神天皇にまとわり付く死
 さて、宇佐神宮に祀られているとされる二神、応神天皇神功皇后には、表向き「死」の影が付き纏っているようには見えません。神の意思に逆らった夫である仲哀天皇が、突然橿日宮(現在の香椎神社とされる)で死去しました。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 倭国の東方の国、物理屋が見る経済学

倭国騒乱
 前回引用した魏志倭人伝パラグラフで最後の部分に言及しませんでした。それは「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の行です。
「女王国の東、海を千余里亘ると、又国がある。皆倭人」と。

 

 

 

法螺と戯言 : 卑弥呼の死(2、西都原古墳群(宮崎県))

西都原古墳(宮崎県)
 八月初旬より、邪馬(台)国の話を書いてきました。邪馬(台)国は九州にあったのか、それとも近畿にあったのか?日本の学界のみならず、素人歴史愛好家までがその論争に巻き込まれています。私は8月2日、同月5日の記事でこの論争に決着をつけたと思っています。日本国民の多くはいわば常識として「邪馬(台)国」は九州と考えている事を、頂いたコメントから察することが出来ました。その意味では、私の考察はしごく常識に適ったものでありました。私の論拠を繰り返しておきます:
 (1)魏志倭人伝の「邪馬(台)国の位置」に関する記載が正しかったことを、明確に示した(8月2日記事);
 (2)これまで、いかなる研究者も見逃していた「魏志倭人伝に登場する国の名前」が番号(数)であったことを明らかにしたことでもって、八番目の国である邪馬(台)国を近畿に置く理由は全く無い(8月5日記事)。

 

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 卑弥呼の死(3、西都原古墳-2),小泉元首相「原発ゼロ」

卑弥呼の死(3、西都原古墳-2)
 前回、西都原古墳群のある地が「投馬国」領域内であろう事を書きました。まずはそのことの傍証を下の図を参照しながら記しておきます。

 

 

 

法螺と戯言 : 西都原古墳(4、男狭穂塚)

男狭穂塚
 前回、西都原古墳群を構成する最大の二基の一つ女狭穂塚古墳を考察しました。今回は
北側にある男狭穂(おさほ)古墳を考えてみたいと思います。前回の図を再掲します。

 

 

法螺と戯言 : 西都原古墳群(5、雑談)

いささか荒唐無稽な想像
 暑い夏、熱苦しい議論を書き連ねました。今回は、ざっと読み流してください。西都原古墳の東側に南北に「一ツ瀬川」が流れます。川の西側に巨大な墳墓群。そして西は太陽が没する方向、つまり「死」の世界です。そこで連想するのがエジプト・ルクソールの王家の谷です。
 私は、卑弥呼の側近がこの西都原に、墓所の築造を思い立った際、ブレーンに渡来人が居たのではないかと想像しています。

 

 

 

法螺と戯言 : 卑弥呼の死後(魏志倭人伝より)

卑弥呼の死後(魏志倭人伝より)
 魏志倭人伝は、卑弥呼が死に、巨大な墳墓を築造したこと、百人を越える奴婢が殉葬されたことを記し、以下の文節を続けます:

 

 

 

 

法螺と戯言 : 編年史改定(1)、nature原発問題・国際共同解決を(9月3日号)

編年史改定(1)
 本ブログ8月2日付け記事から十六回にわたって魏志倭人伝に記載された記述に基づいて、邪馬(台)国を考察してきました。そのほとんどは、専門家がほとんど言及してこなかった事柄であったと思っています。それだけに信憑性については当然大いに論議のあるところと思いますが、考察の段取り、そして議論の積み上げについてはそれほど荒唐無稽なものではなかったと自負しています。これまでの議論の要点をまとめることを通じて、私の古代史編年表も改定すべきと思っており、後日、本ブログに掲載します。

 

 

 

法螺と戯言 : 編年史改定(1)、nature原発問題・国際共同解決を(9月3日号)

編年史改定(1)
 本ブログ8月2日付け記事から十六回にわたって魏志倭人伝に記載された記述に基づいて、邪馬(台)国を考察してきました。そのほとんどは、専門家がほとんど言及してこなかった事柄であったと思っています。それだけに信憑性については当然大いに論議のあるところと思いますが、考察の段取り、そして議論の積み上げについてはそれほど荒唐無稽なものではなかったと自負しています。これまでの議論の要点をまとめることを通じて、私の古代史編年表も改定すべきと思っており、後日、本ブログに掲載します。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年再改定作業(2)

古代史編年再改定作業(2)
 紀元一世紀から四世紀にかけての倭国の事情を知るには、ひとえに魏志倭人伝の記述に頼るしかありません。当時の倭国に住む住民の習俗などは倭人伝に記載されています。専門家は、関連する中国大陸に起きた朝廷の正史等諸文献を、日本列島に残された古墳、遺構などと照合しながら、倭国側の実情をあれこれと考察してきました。しかし、此処には大きな制約があります。日本列島に残された史跡の年代決定は中国大陸歴代の皇帝治世下で書き残された正史と照らし合わせることが可能なほどの精度を持たないことです。したがって、当時の倭国の生活環境は、大雑把に概観できるけれども、倭国内部、および周囲との政治情勢については、その時間的推移がさっぱりつかめなかった。それが、現代の古日本列島「政情」学の現状であったと考えています。

 

 

 

法螺と戯言 : 倭国一〜四世紀編年史構築の試み(2)

 魏志倭人伝が記載する記事から、一世紀~四世紀の倭国の政情をこれまでの考察を基にして整理する作業をしています。前回、「三](彌)国の二(不)国と七(奴)国による分割統治を書きました。前回、三つを列記しました。その続きです。

 

 

 

法螺と戯言 : 紀元一世紀から三百年間の倭国の政情(4)

紀元一世紀から三百年間の倭国の政情(4)
 邪馬台国議論の主要なポイントを列記するすることで、紀元一世紀の倭国の歴史編年を試みています。前回まで四点を列記してきました。今回は五番目です:
(5)邪馬国連邦の卑弥呼共立(8月19日記事)
魏志倭人伝原文:

 

 

 

 

法螺と戯言 : 東京03(東海林さだおの世界),紀元初世紀の倭(まとめ)

紀元初世紀の倭(まとめ)
 そろそろ、私の日本列島古代史編年作業も、異なる時代に移らねばなりません。移る前に、最近のブログ記事での議論を簡単な表にしてまとめておきます。:

 

 

 

法螺と戯言 : 古事記と日本書紀,千鳥ケ淵戦没者墓苑

22:30 by 瓢箪虻

 

古事記日本書紀
 前回、古事記の冒頭部分の記述を以って、それが藤原不比等倭国史観に基づいて構築されていると書きました。これには異論のある方も多かろうと思います。実際、古事記日本書紀の違いが多くの学者・研究者によって研究され、おびただしい数の学術論文として結実されています。
 古事記の上・中・下三巻にわたる歴史記載に先立って、上巻は序言に始まります。その後段に下記が書かれています:

 

 

 

法螺と戯言 : 古事記と日本書紀(2),米国の初期地震警報

古事記日本書紀(2)
 前回、日本書紀古事記が書く倭国史の骨格は藤原不比等によって構想されたと書きました。天皇の名前とその系列順位がこの二つの歴史書で同じだからです。これについてコメントを頂きました。つまり、事実がそうであるなら、誰が構想しようと同じ編年史となるだろう、というものです。

 二つの歴史書が「人為的」に拵えられた「虚構」を含んでいいることを、上記コメントへの私の回答としたいと思っています。「虚構」とは即ち、
(1)日本書紀編年からきわめて明らかな二重王制を両歴史書が無視していること、
(2)神功皇后の存在を前提とした記述であること、
(3)「ホムタ]天皇命名の謂れなどです。
 日本書紀は、あたかも多様な史実を反映して編纂されたとの体裁を取り繕うことを目的として「一書曰く」と題して、多様な歴史経過を、時に記述します。しかし、基本的な歴史骨格では、二つの歴史書は全く同一なのです。上に例示したような「歴史の改竄」と思われる点については、詳細にわたって同一なのです。これは、誠に「不自然」です。これから書く私の編年史区分、D期、についての考察を通じてさらにこの事を考察します。D期とは、二王制の晩期を指します。東王は推古女帝、西王は敏達から皇極女帝までの五代の時期です。その期間は西暦625年頃から661年頃と考えています。