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万葉集:日本書紀:古事記:20130503:20130807:万葉集一歌:二歌

万葉集:日本書紀:古事記:

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年・私見(11、猟於蒲生野(2))

古代史編年・私見(11、猟於蒲生野(2))
 4月17日の記事で、万葉集一から十二歌、および二十二歌に読み込まれている九州の地を図で示しました。とすれば、二十歌が例外であるはずがありません。私は二十歌の解読作業で、標野(しめの)に着目しました(2009年8月2日付けブログ記事)。「標」は、[注連縄](しめなわ)の転じた表現であるというのが学者さんの言い分です。
 しかし、歌の原文は、『「むらさき」という場所で逝(な)くなったので、「しめ」という場所へ行き云々』と、はっきり書いています。「しめ」は場所の名前であろうと、私は大宰府周辺を探した結果見つけたのが「志免」(しめ)町でした(下図参照、九州・福岡空港とその周辺図)。

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年・私見〔20、天武天皇〔6〕〕

古代史編年・私見〔21、天武天皇〔6〕〕
私を含め素人による日本書紀解読には問題がつきまといます。自己が勝手に拵え上げた仮説の検証と称して、書紀の記事を恣意的に「つまみ食い」して辻褄を合わせることです。できるだけ、そうした過誤を避けたいと考え、前回掲載した表には青字で、主要な出来事を併記しました。
さて、その青字記事です。天武七年に死去したとされる十市皇女が歴史に登場するのは、その生誕記事を除けば、天武四年紀二月のことです。
天武天皇四年(六七五)二月丁亥【十三】、十市皇女。阿閉皇女。参赴於伊勢神宮
十市皇女と阿閉皇女が、伊勢神宮に参詣のため赴いたとあります。「赴任」したということでしょうか?阿閉皇女の父は天智天皇であると岩波文庫〔五〕は、123頁で書きます。日本書紀は天智の娘を阿陪皇女と書きます。漢字表記が異なることに何がしの意味があるのか否かは不明です。後に天武天皇を父とし、持統天皇を母とする草壁皇子の妃となり、息子である文武天皇の後を襲い元明女帝となったと、書紀は書きます。

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年〔22〕,素数の話(2、nature,2003 March 24より)

日本書紀と左注の異なる干支、天智・天武暦-
 この二つの歌に付された「日本紀」から引用された左注に着目します。日本書紀は「天武天皇四年(六七五)夏四月甲戌朔戊寅」、つまり天武天皇四年四月一日〔朔日〕は、「甲戌」(きのえいぬ)であると書きます。一方、万葉集に付された左注では、それを天皇四年乙亥夏四月戊戌朔」、四月一日は「戊戌」(つちのえいぬ)であると記しています。

 これが意味するところは何でしょうか?倭国の歴史を著述した書には少なくも二つ、つまり「日本書紀」と「日本紀」が存在するという事実です。どちらかが、他方の原文であると考える学者さんもいるようですが、定まった説はないようです。
 万葉集の左注(「日本紀」の記述)が誤りであろうと多くの人が考えます。

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年・私見〔24〕

古代史編年・私見〔24〕
 前回、万葉集二十五歌が壬申の乱・冬の陣での征討軍の苦闘を歌っていると、書きました。その場所は「耳の嶺」つまり「耳納山」(みのう)でした。壬申の乱の前段階、天武天皇は吉野を脱却して先ずは、「美濃」(みの)に向ったと日本書紀は書きます。実は、それは「耳納山」だった。「美濃」も「耳納山」の三重県への「輸出」であったと考えています。改めて、壬申の乱の舞台が実は北九州であったことを確信すると同時に、藤原不比等の[倭国西王]隠しに駆けたすさまじい執念を見る思いです。

 さて、今回は、流罪された「麻續王」の名前について考察します。
―「麻續王」と「麻績王〔麻積王〕」-

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年・私見(27、大津皇子謀反と賜死(2))

古代史編年・私見(27、大津皇子謀反と賜死(2))
 大津皇子の適切な対策が効を奏し、暗殺が一時期抑止されたのも束の間、天武十四年には、二人が新たに暗殺の犠牲になったと思えます。そして翌年からの日本書紀記事を時間順に列記します:
(1)朱鳥元年(六八六)正月乙卯【十四日】酉時。難波大蔵省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連薬家失火之。引、及宮室。唯兵庫職不焚焉
 岩波文庫校注者は、難波を現在の大阪の地と見做し、そこに火災の痕跡を認めたと書きます(217頁)。そうであれば、これは、天武側の反抗行動と思えますが、私は「難」は「儺」の転じたもの。つまり現在の「那の津】(博多湾奥)辺りではなかろうかと思っています;更には、
(2)同年七月戊申【十日】雷光南方而一大鳴。則天災於民部省蔵庸舍屋。或曰。忍壁皇子宮失火延、焼民部省
 この二つの記事はテロ勢力からの大津皇子対策への新たな反撃・攻勢であったろうと思っています。

 

 

 

blog.livedoor.jp

古代史編年・私見(28、暗殺勢力)
 天武紀に突如増える死者の数。とりわけ、王族以外の殆どは壬申の乱で軍功があった者達です。これらの人たちが、【乱】で負傷し、結果として死を早めたという解釈は可能です。現時点で、その解釈をはっきりと否定する根拠はありません。しかし、日本書紀はそうした死者たちの少なくない人について、その死を知った天武天皇の驚きと哀しみを書いています。これは天武天皇が彼らの死を予期していなかったことを示すのです。

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年私見(29、闇の暗殺勢力(2)),Tetra-quark(nature, 6.30)

古代史編年私見(29、闇の暗殺勢力(2))
 前回、天武天皇の側近・重臣へ加えられた暗殺に先立つ歴史的背景を概観してきました。それは、六世紀末の隋建国、それにほぼ時期を同じくする継体天皇の出現に端緒を観ることができると書きました。この二つが直接の契機となり、倭国東王体制への中国大陸政権の介入・浸透が深まります。「磐井の乱」は、こうした介入に唆された倭国東王政権の西王政権に対する軍事行動であったと考えています。しかし、この軍事行動は成功裡には終結しません。そこで、次に仕掛けたのが、日本書紀が書くところの「神仏戦争」です(2013年1月25日記事)。

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年(30、two「中」s' 「仲」)、文化が国を護る(雑感)

古代史編年(30、暗殺権力(3))
 前回転載した皇極三年「中大兄と中臣鎌子連の出会い」記事について、着目すべき諸点を以下に箇条書きしておきます。まずは「中大兄」について:
(1)「中大兄」なる人物が歴史に登場するのはこの記事が始めてです。そして、645年、上記記事の一年後に皇太子になるときも含めて、この人物には「皇子」なる敬称が付されません。
 参考:皇極天皇四年(六四五)六月庚戌【十四日】譲位於軽皇子。立中大兄為皇太子。

(2)誰しもが「中大兄」は舒明天皇の長子と思い込んでいますが、それを銘記した記述はないのです。

 

 

 

 

法螺と戯言 : 古代史編年(34、万葉集二十九歌(1))

古代史編年(34、万葉集二十九歌(1))
大津は壬申の乱の舞台です。そして持統女帝が天武天皇との間に生した草壁皇子の生誕地です。誰もが、大津は琵琶湖畔であると考えています。私のブログで大津は熊本であると繰り返し書いてきました。今回はその議論にトドメというわけです。それが、万葉集二十九歌です。
%%%%%万葉集一巻二十九歌
題詞 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
原文

 

 

 

法螺と戯言 : 夜刀神(風土記解読―3)、ワクチンの防護が破れる(ブレイクスルー、米国)

 

夜刀神(風土記解読―3)
 常陸国風土記・行方郡の条に登場する「夜刀神(やつと)」は、ゾロアスタ教の神の構造体系の中で第三階層に位置づけられる「ヤザド(Yazd)」、「ヤツド」で、それは「諸神霊」であると書きました。ウイキが以下の解説をします。

 

ヤザタ - Wikipedia

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/0/4/04260015.jpg

 

 

法螺と戯言 : 高市皇子の死(2、万葉集一九九歌(後半))

高市皇子を悼む(万葉集一九九歌、後半)
 この歌の後半部を、解読せんと、歌の前に座って、漢字列をじっと眺めました。生まれながらにして私には「詩心」、「信仰心」、「思想」に欠けています。おまけに古代の儀式などについては無知そのものです。これまでは、図々しくも「想像力」のみに頼って、それなりに納得の行く「万葉歌解読」の一部をなしたように思ってました。しかし今回ばかりは、私の能力を大きく超える「課題」であるらしいことがジワジワとわかってきました。

 

 

 

法螺と戯言 : NHK・BS歴史館へのコメント、地震と水(米国科学誌7.15号)

(1)銘文に刻まれた「辛亥」について
 これを、コメントするには、私の2009年12月28日のブログ記事の引用が不可欠です。その記事で掲載した図をまずはここに再掲します。図は埼玉県南西部です。上方の稲荷山古墳のあたりが行田、氷川神社のあたりが大宮、右下は朝霞です。私はこの朝霞は安積同様「火を信仰するサカ」族に由来すると考えています。これが後世「アスカ」に転化したのです。:

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/b/0/b0122e37-s.jpg

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/b/0/b0122e37.jpg

 

 

法螺と戯言 : 天武勢はどう挙動したのか?(1)

天武勢はどう挙動したのか?
 これまでに天武天皇とそのお子達、とりわけ長子である高市皇子についての日本書紀そして万葉集に記載される多くの断片を一つ一つ詳細に検討してきました。それらを整理し、互いに関連付け統合する作業を始めます。この作業を通じて、私の七世紀倭国史の編年がすっきりと見えてくればしめたものです。下の表は、

 

 

 

法螺と戯言 : 天武勢の奮戦そして降伏(2)

壬申の乱の内実と天武勢(2)
 万葉集199歌の前半部で叙事されている記述に従えば、倭国東王(奈良・闇権力)と唐進駐部隊から成る連合軍は、不破(現在の浮羽山岳地)を超えて南に進軍し、和水(現在のなごみ)に陣屋を設け、白川中流大津宮に迫っています(7月17日記事掲載の図参照)。
 これは、天武領へ逃亡した倭王西王残党を奈良・闇権力が追ってきたのか?それとも、天武領には、それまでの倭国西王との友好関係から、その残党が既に退避しており、その殲滅を図ったのか?

 

 

法螺と戯言 : 史実だった「国譲り」神話

史実だった「国譲り」神話
(H)天武天皇が流されたのはどこでしょうか?
それが、前回書いた書紀の記事、「天武天皇十四年(六八五)十月壬午【十日】遣軽部朝臣足瀬。高田首新家。荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮。」に示唆されています。私は、信州信濃だと思っています。この筋書きで理解が深まるのが、古事記の以下の記事です:
%%%%%古事記、国譲りの段

 

 

法螺と戯言 : 天武紀に顔を覗かせる『魏志倭人伝』,モンサント

天武紀に顔を覗かせる『魏志倭人伝
 前回、古事記が書く「国譲り神話」は、天武の信濃への流罪という史実に基づいて作成されたことを書きました。流罪された時期、七世紀後半、倭国西王勢力はほぼ、壊滅状態であったと思われます。残党の多くは、西王勢力が日本列島に渡来した当初に滞在した東北日本に逃散したのです。これが、奈良権力による東国への「征夷」武力の度重なる出動となり、且つ東北地方からの防人駆り出しなどの差別となりました。もちろん、奈良闇権力へのテロ攻撃も散発的に起きたようです。奈良・闇権力がたびたび高安城の防衛機能を視察していることからわかります。
 こうした散発的な反抗はもちろん九州でも起きていたでしょう。さて、何故、こうした武力制圧にもかかわらず、天武と高市皇子は死を免れたのでしょうか?この一族の出自がその理由ではなかろうかと考えています。

 天武一族の出自、それは日本古代史の根幹に触れる話であるようです。

 

 

 

法螺と戯言 : 魏志倭人伝は「このように」読めば良い!

魏志倭人伝の解読に成功す(1)!
  どうやら、七世紀の古代倭国には、邪馬台国の名残が色濃く政治に影響を落としていたようです。次回、書きますが、私は「邪馬台国」は存在せず、存在したのは「邪馬国」であると考えています。しかし、その説明を書くまでは、無用の混乱を避けるため便宜上「邪馬(台)国」と書いておきます。

 

 

 

法螺と戯言 : 邪馬国連邦(台)は「番号国」から成っていた

 

20130805

 

邪馬国は首都でそれを「台国」と魏調査官はメモした
 邪馬(台)国という国名について、私はかねてより疑問を持っていました。古田武彦氏は邪馬「臺」ではなく邪馬「壹」であると主張し、大きな論争になりました。私自身は、それは、大きな問題ではなくむしろ「台」とは何か?に大きな関心がありました。実は、古田氏もこの「台」について言及しています。

 

万葉集一歌:
「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母」

 

万葉集二歌(世に「国見の歌」とも呼ばれます):
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜河(さんずいでなくりっしんべん)國曽 蜻嶋 八間跡能國者」

 

>20090401

>20081201

 

 

 

法螺と戯言 : 邪馬連邦が魏から隠した国々(1),ネーチャー誌が見る安倍科学政策

 

20130807

 

馬連邦が魏から隠した国々(1)
 邪馬(台)国とは、邪馬国に中央政府を置く(正確な表現ではありませんが)邪馬国連邦のようなものと思っていると書いてきました。中央政府跡が吉野ヶ里であろうと思っていますが、これについては確信はありません。