邪馬台国:卑弥呼:倭人伝:DNA:縄文系:弥生系:アイヌ民族と沖縄の人とのDNAの近かさ
『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。
大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子である[1]。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51823647.html
法螺と戯言 : 出口調査は違法だ!!、倭の五王(25、三輪王朝)
倭の五王(25、三輪王朝)
前回、三輪王朝を考察して、纏向(まきむく)遺跡の建造物の特異な方位を書きました。三輪王朝は祟神天皇に発すると水野祐氏は主張します。そこで、祟神天皇の墳墓とされる柳本行燈山古墳を観察すると、そこにはシリウス星信仰の名残は見えません。所で、かっては、現在の景行天皇の墳墓(渋谷向山古墳)が祟神天皇の墳墓とされていたそうです(下の写真)。
継体天皇(3)
磐井の乱(1)
法螺と戯言 : 磐井の乱(1),nature 完璧原子炉(2)2012.12.5 号記事転載
磐井の乱(2)
法螺と戯言 : 磐井の乱(2)、完璧な原子炉(3、nature 12.21.2012号)
こうした、経緯に鑑みるならば、661年は、それが白村江海戦での大惨敗の二年前であったとしても、天智天皇の即位年であるからして不動の歴史モニュメントであったと思います。
上記の議論から、二つの暦のすり合わせ原点は661年で無ければならないのです。
(つづく)
古代史編年・私見(7、郭務悰(2))
唐新羅連合軍が、一回目の倭国との終戦協議を終え、一旦帰国します。前回、この協議は不調に終わった、言い換えれば、郭務悰;などは、協議に満足せずに帰ったのではないかと書きました。しかし、どうもそうではないらしい。それを今回書きます。そのことが、彼らの不在中の倭国側の出来事から窺えます。それらを箇条書きで列記します:
法螺と戯言 : 古代史編年・私見(8、郭務悰(3)),社会科学は「科学」か?(米国科学誌)
古代史編年・私見(8、郭務悰(3))
さて、二回目の來倭です:
《天智天皇四年(六六五)九月壬辰【二十三】》◆九月庚午朔壬辰。唐国遣朝散大夫沂州司馬馬上柱国劉徳高等。〈等謂右戎衛郎将上柱国。百済将軍朝散大夫上柱国郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日、至于対馬。九月二十日、至于筑紫。二十二日、進表函焉。〉
文意:西暦665年9月23日、唐国が朝散大夫、沂州司馬、馬上柱国(役職名か?)・劉徳高等を倭国に遣す。ここで、「等」とは以下の人物である:右戎衛郎将上柱国。百済将軍朝散大夫、沂州司馬、郭務悰を含む254名である。7月28日に対馬を経て9月20日に筑紫に到着。22日に「表函」を提示する。
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10806131_po_ART0009180302.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
血液型分布に見る日本古代史
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51821471.html