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万葉集:日本書紀:古事記:(27):20110105:

 瓢箪虻さんへの敬意を表して

古代史探求への参考に

法螺と戯言の目次、備忘録

をメモしておきます。

 

by TAS...

 

 

法螺と戯言 : 「安曇=安積(あつみ=>あさか)=あすか」を考える

21:28 

by 瓢箪虻

 

駒澤大学・長野覚氏の説を教えていただきました。この説は、「日本の山岳信仰」と題する講演の中で述べられたものだそうです。

 

理由は下記です。長野県の松本と長野を結ぶJR篠ノ井線の中間あたりに「 麻績村 」があるからです。実際、万葉集に関係付けた言い伝えもあるようです。「麻績」を「おみ」と音させたのには、何がしかの政治的思惑があったのではと想像しています。それは、多分、平安時代の頃であったとおもいます。

 

 

法螺と戯言 : 2011年1月10日青山デモ

20:11 

by 瓢箪虻

 

法螺と戯言 : 六本木デモ

21:33 

by 瓢箪虻

聖武天皇彷徨
740年(天平12年)、聖武天皇が突然、奈良の平城京を離れ、新たな都をもとめ周辺を彷徨したことは、後世の多くの研究者を惑わせました。その理由が分からなかったからです。そして取り合えずは当時のさまざまな資料を俯瞰できる現代に生きる研究者にあっても依然それは謎のままであるように見えます。

 

 

 

法螺と戯言 : 聖武天皇彷徨(7)

22:04 

by 瓢箪虻

 

 

 

法螺と戯言 : 国際金融資本への屈服表明した共産党

22:04 

by 瓢箪虻

 

聖武天皇彷徨(8、藤原広嗣の乱
前回、この乱を理解するうえで考慮さるべき5つの鍵を書きました。その一つが乱の首謀者である藤原広嗣の人となりです。これについて、ウイキペデャイアには興味深い解説があります:

 

藤原広嗣の乱 - Wikipedia

 

法螺と戯言 : 藤原広嗣野出自

20:25 

by 瓢箪虻

 

聖武天皇彷徨(8)
広嗣の母方の祖父である石上麻呂については、興味深いエピソードがあります。続日本紀の巻五、和銅三年(七一〇)三月辛酉(十)にこんな記事があります。「始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂為留守。」

 

法螺と戯言 : 米国追従を明言した菅内閣(1月21日付東京新聞)

21:49 

by 瓢箪虻

聖武天皇彷徨(9)
藤原広嗣の母方の祖父として、一説に蘇我倉山田石川麻呂との説があると前回書きました。姓からこの祖父が蘇我一族であることが分かります。実際、祖父は蘇我馬子とされています。この石川麻呂は日本書紀では、歴史の結節点で重要な脇役として登場します。まずは日本書紀の原文を紹介します:
%%%%%日本書紀巻二十四(岩波文庫(四)、216頁
皇極天皇三年(六四四)正月乙亥朔》三年春正月
[前略、このくだりでは中臣鎌足を謙虚な人柄で、蘇我一族の専横を憂う見識ある人物と記します。それに続き、有名な法興寺での槻木(ケヤキの一種)での盟約を書きます。]
(原文)偶預中大兄於法興寺槻樹之下打鞠之侶。而候皮鞋随鞠脱落。取置掌中。前跪恭奉。中大兄対跪敬執。
(大意)たまたま鎌足が中大兄の興ずる蹴鞠に加わった。そのとき中大兄の靴が脱げた。それを鎌足が拾い上げ、ひざまずいて中大兄にお渡しした。中大兄も丁寧にそれを受け取った。

 

法螺と戯言 : 佐藤優氏によるウイキリークス情報分析能力

21:04 

by 瓢箪虻

 

法螺と戯言 : 「三国遺事」が語る「ひどんの乱(647年、新羅)」

21:03 

by 瓢箪虻

 

ここに、以前書いたその記事を再掲いたします:
それは、『三国遺事』という朝鮮半島の歴史書です。そこに、「乙巳の変」とそっくりな事件が朝鮮半島で起きていたと書かれているのです。この『三国遺事』について、ウイキペヂアは、以下のような説明をしています。
『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった郷歌(ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 藤原広嗣・母方祖父自栽(西暦649)

21:39 

by 瓢箪虻

 

 こうして、広嗣の乱の一要素として、広嗣の出自をみてきたのですが、実は、上記に興味深い後日談があるので、次回、それに触れておきたいと思います。
(つづく)

 

 

 

 

蘇我入鹿 - Wikipedia

 

法螺と戯言 : 小沢氏素人判断起訴と有田氏のブログ

21:53 

by 瓢箪虻

 

 

誰しもが指摘するのは、この一連の騒動を背後で操ったのが藤原鎌足です。一体、この藤原鎌足とは何者なのでしょうか?藤原広嗣の母方祖父が藤原一族に深い恨みを持っていたらしいことを書きました。この乱の背景を探るべく、まずはこの祖父が巻き込まれた騒動を見てきました。とすれば、もう一歩進めて、藤原一族の祖とされる藤原鎌足をすこしばかり眺めてみたいと思います。
(つづく)

藤原鎌足 - Wikipedia

 

法螺と戯言 : 核実験監視技術がもたらした画期的な地球科学上の大発見

21:09 

by 瓢箪虻

 

 日本書紀の編纂者は藤原不比等です。そして、これは、720年に完成し天皇に「正史」として上程されたとされます。この「正史」は漢文で書かれています。当時、万葉仮名と呼ばれる九州王朝独自の言葉が工夫されていたことはすでに書きました。それは、九州に居する複数の「族」に共有されており、その特徴は「表記文字」は漢字を用いていることです。しかし、それを「音」(おん)するにあたっては、基本的には漢字の「訓」(意味)を日本列島で用いられている読み方にするというものです。また、助詞などについては適宜「音」を同じくする漢字を用いる、つまり今で言う「当て字」語法です。日本列島に居する族たちが自らの手で「正史」をなそうとするのであれば、何故、表記法として「万葉仮名」が用いられていないのか?これも大きな謎です。
(つづく)

 

法螺と戯言 : 部分的核実験禁止条約

21:13 

by 瓢箪虻

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/定恵

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51665944.html

21:09 

by 瓢箪虻

長男「定恵」の渡唐と帰国、南淵請安への師事などなどが、唐からの指示の伝達であったとすると、諸処が合点がゆきます。先走りを許されるなら、667年(天智6年)、九州王朝は唐・新羅進駐軍によって九州の地を放逐されます。そのときの天皇が天智であるところから、天智は悲哀につつまれた敗残者であるように思いがちです。しかし、むしろ、天智天皇こそが、九州王朝を九州からの撤退に導いた首謀者であったとすることのほうが、説得的です。思えば、九州放逐の直接のきっかけは、663年の白村江海戦での惨敗です。そして、その戦争を仕掛けたのもこの天智天皇です。
後日、触れることになりますが、私は以前、神武天皇の即位が何故紀元前660年に定められたかを書きました(2008年11月21日記事)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301910.html 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51667031.html

 

万葉集(十三ー十五歌再考)
 645年、何か大きな事件があったようです。それを万葉集十三ー十五歌が叙しています。その情景は、日本書紀が描くところの乙巳の変大化の改新)とは、その様相を全く異にします。それでは、何があったと想像できるでしょうか。
そこで、十三歌の原文を再掲します:
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉
(仮名文) かぐやまは,うねびををしと,みみなしと,あひあらそひき,かむよより,かくにあるらし,いにしへも,しかにあれこそ,うつせみも,つまを,あらそふらしき

21:06 

by 瓢箪虻

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51668116.html

20:54 

by 瓢箪虻

国譲り神話

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51669731.html

21:33 

by 瓢箪虻

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51670744.html

21:33 

by 瓢箪虻

 

藤原広嗣の乱の背景

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51671758.html

21:36 

by 瓢箪虻

 

藤原広嗣の乱の背景
この続日本紀の記事は、私の想像を膨らませます。大宰府藤原広嗣が叛乱を起こしたことを奈良・大和王朝が知ったのが9月3日です。そのあと、急いで、鎮圧軍の編成に取り掛かります。「東海。東山。山陰。山陽。南海五道軍」から兵を徴用したとあります。今で言えば、静岡、島根、鳥取、岡山、四国(高知)と、あります。島根、鳥取はすでに書いてきましたが、麻績一族が流刑された地です。つまり、麻績一族のそもそもの出自は九州王朝にあります。一方静岡、ここは、倭武命が火事を草薙剣で鎮火したと書紀が語る地です。私の万葉集解釈に従えば、倭武命は蘇我ー高一族です。

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51676214.html

21:34 

by 瓢箪虻

藤原広嗣の乱の背景
 以前、私は藤原広嗣の乱の背景を読み解く鍵として以下の五点を挙げました:
(1) 乱の舞台は九州であること;
(2)広嗣は、唐から帰国したばかりの吉備真備と玄昉の処分を求めていること;
(3)官軍司令官・大野東人は、同地に停泊している新羅船の人員と機器の採用の許可を求めていること;
(4)藤原広嗣の生い立ちに曰くがありそうであること;
(5)乱の平定を知る前に、聖武天皇の彷徨がはじまっていること。

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51677172.html

20:46 

by 瓢箪虻

 

藤原広嗣の乱の背景(壬申の乱の北九州説)
 これから、紹介するのは、九州で私のブログを丁寧に読んでくださっている方から頂いた情報です。

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51678531.html

21:20 

by 瓢箪虻

 

壬申の大乱
 前回、鍵は白川にあると書きました。この川は阿蘇山火口内の湧き水に源(もと)しているとされています。

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/0/d/0d21588a.jpg

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51679318.html

21:28 

by 瓢箪虻

壬申の乱の舞台は熊本(?)