藤原不比等は日本書紀巻二十九天武四年四月紀の冒頭に書く「斎」の催事を厳粛さを保持しつつ賑々しく仕立てるために、そのことに役立つと見越した出来事をかき集めます。
9月13日記事で 広瀬での「祀」と竜田での「祭」を書きました。日本書紀は一方で荒々しく出来事を捻じ曲げて書きながら他方で、「漢字」の使い方に注意を払っている。それは、まるで「万葉集」での漢字の使い方を思わせる注意深さです。前記記事で「河曲」なる表現について読者の皆様に注意を促しました。広瀬では菊池川がほぼ直角に曲がっている。それを「河曲」と書いた。所が古代史研究者はこれに「かわわ」と仮名を振りその河の実際には立ち入らない。それは、この河がならと思い込んでいるから(後述)と言うこともありますが、こうした繊細な漢字使いに頓着しなかったが故に歴史の真実を見落としてしまうのです。
14/3449歌,"題詞なし",
"思路多倍乃 許呂母能素R乎 麻久良我欲 安麻許伎久見由 奈美多都奈由米",
"白栲の衣の袖を麻久良我よ海人漕ぎ来見ゆ波立つなゆめ",
"しろたへの ころものそでを まくらがよ あまこぎくみゆ なみたつなゆめ"
14/3555歌,"題詞なし",
"麻久良我乃 許我能和多利乃 可良加治乃 於<登>太可思母奈 宿莫敝兒由恵尓",
"麻久良我の許我の渡りの韓楫の音高しもな寝なへ子ゆゑに",
"まくらがの こがのわたりの からかぢの おとだかしもな ねなへこゆゑに",
14/3558歌,"題詞なし",
"安波受之弖 由加婆乎思家牟 麻久良我能 許賀己具布祢尓 伎美毛安波奴可毛",
"逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも",
"あはずして ゆかばをしけむ まくらがの こがこぐふねに きみもあはぬかも",
(図1: 芝山古墳、はにわ博物館にくわえ漢音教寺内の埴輪展示が必見です )
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52080699.html
「斎」が八世紀に確立された日本の信仰体系であるとするならば、七世紀前半に生きたとされる聖徳太子の存在が問題となります。(嫌な予感でありますが、又話が脱線しそうであることを自覚せねばなりませんが)
梅原氏の著作が世に出て、30年後に衝撃の書「聖徳太子の誕生」(大山誠一著、吉川弘文館)が世に出てきました。大山氏は日本古代史の泰斗である井上光貞氏のお弟子さんです。誠に説得力ある考察です。しかも、大山氏は日本の古代史研究のいわば本道を歩んでいる研究者です。とうぜん、守旧派風挙動を取ってきた学界の重鎮も今度はしかるべき反応を見せているということになります。かくして、再び「聖徳太子」論議が高まることとなっています。大山氏の説への賛否の反応などには興味深いエピーソードもありますが、脱線を自戒して、ここでは止めておきます。
そうした議論があることを文部科学省官僚は当然承知しているはずです。にもかかわらず教育現場に無用な混乱を持ち込んでいると、私には映ります。その背景には安倍首相とその背後にある〔日本会議〕の意向を忖度した官僚たちの思惑が働いているのだろうと想像しています。
その混乱を産経新聞記事が紹介しています。
%%%%%聖徳太子を歴史教育ではどう説明するのか?
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52079855.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52079694.html
https://toshiaki.exblog.jp/23721123/
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52079249.html
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/b/8/b8462dec.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/3/d/3d2f7fe9.jpg
豐葦原国・瑞穂の国
ところで、この森友学園の当初の校名は安倍晋三記念小学校」であったり「瑞穂の国記念小學院」であったと言います。瑞穂なる言葉は日本書紀・巻一(神代紀上)「一書曰、天神謂伊奘諾尊・伊奘冉尊曰、有豐葦原千五百秋瑞穂之地」(岩波文庫「日本書紀(一)』26頁」)に、由来します。この表現は、どちらが先であるのかは定かでありませんが常陸国・風土記でも香島の条でも登場します。曰く「今我御孫命光宅豊葦原水穂之国」(今わが豊葦原の水穂の国)と書きます(私は現在古代史を論ずる一環として常陸国風土記を考察していますので、数日後に詳しく論ずる予定です)。
「日本会議」なる”日本列島の歴史をこよなく尊重することを標榜”する団体が、如何にも言い出しそうな極めて安直な校名です。しかし、「瑞穂」なる表現は、魏志倭人伝の時代に、倭国の民が話した言葉には由来するとは考えられません。それは、日本書紀を編纂した藤原不比等が何がしかの思惑にもとづいて発想し造語?したことは間違いないと思うからです。
常陸国・風土記で使われる「水穂の国」には、その情景が浮かんできてなにやら納得します。つまり「水田とそこに植えつけられた稲穂」です。なぜ、藤原不比等はこの漢字を使わずに「瑞」なる漢字をあてたのでしょうか?これは、日本列島誕生の象徴である「葦牙』(アシカビ)に呼応した表現なのです(同上書16頁)。日本列島の誕生を厳(おごそか)かに語るべく考え出された言い回しです。
前回、やっと「行方」なる地名の由来に関する議論を終えました。それは那須岳―香取聖線の構築時ではなく、八溝山―鹿島線の構築に伴ったエピソードの一つではなかろうかと考えています。時は、西暦6世紀末です。測量技術を駆使して、ついに100kmを超える聖線構築を終え、爽快な気分であった筈です。北浦を越えた西の陸領域を大いに歩き回ったはずです。そこからわきあがった喜びの気分が「自由」ではなかったかと考えています。その頃は未だ奈良の軍事侵攻も想定されていません。
以前から古代ペルシア語辞典で「namekadar」を見つけてはいたのですが、いきなりそこへ行く前に、他の可能性を探ってみようと考えたわけです。おかげさまで「大生」の地の政治的・軍事的位置づけを風土記から推測するという成果もありました。
しかし、風土記で最も重要な部分である、行方の条には更に重要な記載があります。その幾つかを拾っておこうと思います。行方の地は、何と言っても奈良の軍勢と、それに対抗する渡来・アイヌ・旧倭国(扶桑)の聨合体との衝突の舞台です。戦闘は熾烈を極めたものであったでしょう。
(図1:壮絶さを思わせる夜刀神との戦い)