http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51767483.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51768036.html
何故、愛宕山が「火」に関わる山となったのでしょうか?それは愛宕の「あ」にあります。これはアイヌ語の「火」を意味する「アピ(又はアビ)」に由来するからです。静岡県にある「秋葉神社」も同様と思います。そこで、火をかざした祭り(儀式)が執り行われたのです。須賀川がすでに書いたように「アイヌ」一族にかかわりがあるとすれば「熊を囲む火祭り」であったろうと思っています。後世つまり日本書紀が編纂された後、そこに登場する「火」に関わる神である「迦遇槌命」を愛宕山に無理やりこじつけたのだろうと考えています。
須賀川市のこの愛宕山こそは、愛宕山の原点であるように私には思えます。何故なら、ここで火祭りを催したのだろうと想像できるからです。文字通り、愛宕山は「火」を祀る山であったと思います。そしてそれが現代に引き継がれています。須賀川市の最大の祭りが11月第二土曜日の「松明あかし」で、日本三大火祭りの一つとされています。これが、実は106度と関係していると私は考えています。このことを次回書きます。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51768500.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51768906.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51769461.html
なんと、この神社神事に「鉾」が登場したのです。由緒書には鉾衝神社との関連は書かれていません。しかし、この神社とのつながりを思わせる神事が神炊館神社に残されていることが判明したのです。私としても再度、この神社を訪ねねばならないことになりました。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51769905.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51770301.html
「栄」がついた地名は全国に沢山あります。ウイキベディアもそれに気が付いたのでしょう。どなたかが、調べられる限りでの地を列記しています。勘定すると50を越えます。東北と鹿児島に偏在するような印象がありますが、勘定漏れがあるのでしょう。実際、これから議論する須賀川の栄町が含まれて居ません。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51770939.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51771340.html
須賀神社
須賀川市栄町遺跡で発見された遺構に見られるは、紛れも無く、(少なくも)二つの出自の異なる、或いは宗教を異にする部族が、この地を時間を違えて拠したことを示しています。須賀川市教育委員会もそのことに多大の関心を示し報告書に記載しているわけです。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51772257.html
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「栄」、「あすか」
長いこと万葉集解読に関わる日本古代史の「ド素人考究」を休んでしまいました。そろそろ思いつくままを書き留めておきたいと思っています。現時点での最大の関心事は須賀川の鉾衝神社、神炊館神社で発見した特異な参道の方位とそこから推定されるアイヌ族文明の痕跡です(2月1日記事http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51769905.html )。私が追跡している北方からの渡来部族とアイヌ族は時間的に重なったのか否か?
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51790089.html
地名由来字典よりの転載、はじめ
http://chimei-allguide.com/41/000.html
佐賀県の由来
1. 郡の中心に大きなススノキが茂っているのを見た日本武尊が「この国は栄の国と呼ぶが良い」と言ったという肥前国風土記の記述に由来し、「栄」が転じて「サガ」になったとする説。この説は最も多く語られる説であるが地名学の中ではもっとも有力とされない説である。
2 「砂洲」「低湿地」を意味する「すか」が変化し「さが」になったとする説。サガのほか滋賀にも用いられる説であるがいずれも音変化の点で」考え難い。
3 「さか」が濁音化し「サガ」になった。
4. 「サカ(逆)」が濁音化し「サガ」になった。佐嘉川(現在の嘉瀬川)の河口付近は満潮時に潮流が逆流する逆流水域であり、逆流する川の意味でさかがわとなり「佐嘉川」に転じた後この地を「さか」と呼ぶようになることは充分に考えられ有力な説である。
%%%%%転載終わり
私は、万葉集一巻の二歌、三歌および八から九歌を考察するなかで、「嘉瀬川」を論じてきました(2009年4月24日記事)。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51301938.html
この川の名称は古代ペルシャ語「カハス」に由来すると書きました。大宰府の西を北北西に流れ玄海灘に流出する「御笠」川同様、それは「カハス」の原義「運河」であると書きました。この私の考察からは、この字典著作者が「有力」とする4番目の説は排除されることになります。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51790684.html
不遜にも 日があってこそ 輝ける 月が ずかずか(づかづか) 前を横切る
と言うわけで、今朝は関東そして南東北で千年ぶりの皆既日食でした。特製めがねを買い損なったのでTV画像で眺めました。心なしか、7時半前後あたりが薄暗くなりました。広大な宇宙空間の小さな部分といえども、その構成要素が動いていることを実感する一時でありました。
写真は紙に開けた小さな穴を通して床に映った映像(ピンホール映像)。ハレーションを起こしているとは言え皆既食が捉えられています。右は皆既食からおよそ20分後の映像。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51791082.html
「岩瀬」が「磐瀬」又は「石背」に由来するであろう事は、その通りと思います。八世紀末に編纂されたとする「先代旧事本紀」巻十に、奈良に拠した当時の政権が日本列島に百十四の国を定め支配者たる「国造」(くにのみやつこ)を置いたと記しています。その57番目に「石背」(いわせ)が登場します。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563301?tocOpened=1
~
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563305?tocOpened=1
志賀高穴穂朝 御世 故[>以?]連[>建]許侶命功[>児]建弥依米命定賜國造
志賀高穴穂朝>成務朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/成務天皇
石背国造(いわせのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、建許侶命の子の建弥依米命(たけみよりめのみこと)を国造に定められた。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51792297.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51792617.html
この地に「岩瀬」姓が多いことの顕れでしょう。そして、驚くべきことはJR外房線・御宿駅の東はなんと須賀地区です。「スカ」族の痕跡と思ってよいと考えます。すでに繰り返し書いてきましたが福島県中通り南部の須賀川、長沼、岩瀬は「スカ」族の拠したところです。其れが地名にも、そして部族長の宮廷跡と思われる神社の配置でも明らかであることを私は論じてきました。そして、ここ御宿でもその地名が残っています。神社の配置なども検討すべきです。少なくも参道の方向には特徴的なものは見られません。地図からは残念ながらこれ以上は分かりません。御宿駅のすぐ東に歴史資料博物館があります。ここには、御宿の古代史解明の糸口となるような「宝物」があるのではなかろうかと思っています。
七世紀後半(この見積もりは次回説明します)、諸般の政治事情から、福島の岩瀬を離れてこの地に移住した「すか」族の関係者がこの集落を形成したと考えます。
さて、御宿での「須賀」族の痕跡発見は、あらためて千葉県への関心を呼び覚まします。次回は、千葉県全体に探索を広げてみようと思っています。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51793102.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/夷隅郡
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51793471.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51794350.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51794677.html
要石
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50060.html
https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/cdf84b81-da1f-4acb-a9f2-635567b03005
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51795022.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51795562.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51795892.html
二つの神社建設の背後には、まさに同一の「宗教的思想」があったと思えます。ところが、この二つの神社には真逆な設計思想が同時にこめられています。それが図の二つの矢印で表現されています。鹿島神社の拝殿が、北北西面している(赤矢印)のに対し、香取神社の拝殿はほぼ南南東面(黒矢印)しているのです。渡辺豊和氏は、この重大な差異を指摘したのです。二つの矢印は正反対を向いているのです。
この興味深い事実についての私の理解を次回書きます。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51796223.html
同様は、島根県でもあてはまります。ウイキペディアによれば:
『「島根県」の県名は、県庁の置かれた松江城周辺が旧島根郡(嶋根郡)に属していたことによる。嶋根の名は『出雲国風土記』での八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の命名によると伝えられる。』
と、書きます。島根と言う地名は古くに起源を持ちます。いずれ、議論しますが、ここは、日本書紀および古事記が書くように大国主命が閉じ込められた地です。出雲大社の礼拝が「二拝四拍手一拝」であることは知られていますが、梅原猛氏は「四拍」の「四」を「死」と理解しています。また、祀られる神が南面せず、日が沈む方向(死者の方向)である「西」を向いています。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51796731.html
「スカ」から蘇我へ(1)
前回、この二つの神社を隔てる利根川は「そね」川であったと書きました。そして「そ」は「蘇我一族」の「そ」でもあろうと書きました。この「蘇我」とは、一体何者か?それが「須賀=スカ」又は「栄=サカ」であろうことを前提にしてこのブログを書いてきました。ここでは、その前提を少し考えてみようと思います。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51797056.html
「スカ」から蘇我へ(2)
前回(6月25日)の記事で、日本にある「栄」の地名が多いことをウイキペディアを引用して書きました。東日本で33、中部日本に4、そして西日本で15(内九州11)となります。大変に示唆的な分布です。多分、ここに書かれていない「栄」も多いと思いますが、分布の傾向は変らないだろうと思っています。ところで、私は2010年2月5日記事で、「背男」を付する神社の地域分布を書きました。下はその再掲です。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51363851.html
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/d/0/d0b13923.jpg
四世紀の日本列島、とりわけ九州では漢字が上層支配階級に属する人には広く使われており、当時の日本列島・九州住民の識字率は高かったと考古学者の森浩一氏は指摘しています(「日本の古代 I」,森浩一編、中公文庫、1985)。とするならば、九州に移動してきた「スカ」族には漢字表記が迫られたはずです。ここからが、ややこしい考察となりますので、次回に続きを書きます。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51797859.html
大意は以下です。「隠岐の島にいた兎が本土に渡りたいと思った。そこで、海にいた鰐(鮫のことか?)を騙して本土まで並ばせた」という有名な説話です。これは、かって隠岐の島と本島が陸続きになるような天変地異の事件が起きたことを書いているのではないかと思っています。浜田地震同様、沖ノ島から本島まで徒歩で渡れるような事件があったのです。海域が隆起したか、海水が後退したのか。いずれにせよそうした海底変動であれば、津波は間違いなく励起されます。
葛飾北斎の有名な絵を見ていると、波の砕ける様が、鮫が大口を開けて襲い掛かる様子を連想させます。古事記のこの記事で登場する鰐(鮫)は津波ではないのかと考えています。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51798184.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51798465.html
頻繁に地面が揺れる南関東
相変わらず、東日本が頻繁に地震で揺さぶられています。今週の火曜日に房総半島の先端下で起きた地震は「すわ!元禄地震の再来か!」と、私もふるえ上がりました。夕刊紙「フジ」がそのことを書いています。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51799362.html
この図は、下記のブログからの転載です。そもそもは米国科学週刊誌「サイエンス」に日本の地震研究者が投稿した論文です。
http://takedanet.com/2012/07/post_90e6.html?tw_p=twt
この図は、伊豆半島での地震活動を示しています。横軸は、時間で2011年3月7日から3月14日までの期間です。縦軸は二つの観測です。緑は一時間当たりの地震の個数、そして青を其れを積算したものです。
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/2/9/293c37d4.jpg
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51800458.html
スカ(サカ)から蘇我へ(3)
大分長いことスカを書くことを休んでしまいました。「サカ(またはスカ)と蘇我」を取り上げる直接のきっかけは利根川であることを書きました(6月27日記事)。
先ずは中央アジアの昔に遡らねばなりません。このあたりについて要領よくしかも私のような素人向けに書かれた本があります。栗本慎一郎氏による「シリウスの都 飛鳥」(たちばな出版、2005年)です。この本は、先ずは渡辺豊和氏の仮説に着目し、私同様検証作業を行う経過が書かれています。残念ながら栗本氏がこの著書で引用する検証結果はかなり杜撰です。これは仕方ないことであって、私のような技術屋の知識とテクニックが検証には不可欠です。
経済人類学を専門とする栗本氏にはそれらはもっとも不得手であろうからです。しかし、その歴史を読み解く論理は、明快で私自身が行ってきた(これまでのブログ記事参照)検証作業に照らし合わせながら読むと歴史が見えてくる気がします。
栗本氏はその著書で章を立てます。その題は「蘇我氏はサカ族である」(282-349頁)と、まさにそのものずばりです。