瓢箪虻さんへの敬意を表して
古代史探求への参考に
法螺と戯言の目次、備忘録
をメモしておきます。
by TAS...
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51680084.html
2011年03月04日21:36
森博達氏の日本書紀研究
天武天皇の始めての広瀬・竜田の神の祀りは、大変特殊な期間に始まっています。既に繰り返し書いてきましたが、天武4年(万葉集二十三・二十四歌の左注と日本書紀記事との食い違いに付いても既に書きました)、4月1日に半年間の「生類憐れみの令」が詔されました。五日に大斉事が執り行われ、その五日後の十日に神を祀っています。日本書紀の記事を見てみます:
《天武天皇四年(六七五)四月癸末【十】》
(原文)◆癸未。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連広足、祠風神于竜田立野。遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬、祭大忌神於広瀬河曲。
(大意) 4月10日、美濃王と佐伯連広足(さえきのむらじひろたり)を遣わして、竜田立野に風神を祠(まつ)らせた。間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)と曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)を遣わして、広瀬河曲の大忌神(おおいみのかみ)を祭った。(岩波文庫(五)、124頁より)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51681410.html
2011年03月07日21:46
熊本県の広瀬・竜田
先ずは、解読対象を再掲します。
《天武天皇四年(六七五)四月癸末【十】》
広瀬大忌祭 と 龍田風神祭 の 成立 と 目的 に つ い て
http://redbird.no-ip.info/archives/資料/『日本書紀』巻23~巻30.htm
http://redbird.no-ip.info/archives/資料/
http://redbird.no-ip.info/archives/資料/風土記/
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51682444.html
2011年03月09日21:27
奈良の広瀬・竜田
さて、前回書きましたが、この天武4年4月の「まつり」に先立つ10日前の4月1日から半年間にわたる古代版「生類憐れみの令」が詔されました。4月5日には2400余名の僧・尼による大斎事が催されています。私は、2009年10月16日の記事で、
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51302012.html
ところで、関西にも大津、瀬田、吉野同様に、奈良大和盆地に「広瀬」、「竜田」があります。日本書紀の正当研究者(大学教授)の多くが、この奈良にある広瀬、竜田こそ、すなわち日本書紀に登場する場所であるとして、当然そのことを疑っていません。
ところで、日本書紀は720年に完成したと伝えられます。宮都は奈良盆地の北辺にある平城京です。そこで上梓された日本書紀の記事の舞台が「九州熊本」であることに大いなる違和感があります。これについては、近く考察します。これに関連するのですが、古代史の著名な多くの研究者が、九州と奈良に名前を同じくする地が多いことに、当然の事ながら気付いておらます。しかし、第一線の研究者の方々はこのことをさほど不思議とは思っておられないようです。「奈良政権の発展に伴い、九州に移住した」と説明するからです。奈良の「広瀬」地区の住民が熊本のとある場所に移り住んだ。そこで、彼らの共通する出身地からその場所が「広瀬」と呼ばれるようになった。というわけです。前回と今回の二回のわたって私がなしてきた考察から、学者さん方のそうした推論が成立しないことは明らかです。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51685486.html
2011年03月14日21:54
日本三大実録 の記事の転載です。
%%%%%転載はじめ
廿六日癸未。陸奧國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城倉庫。門櫓墻壁。落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚涛涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。々不弁其涯。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
%%%%%転載おわり
上記の記事で「城」とあるのは、「多賀城」と解されています。とすれば、この記述は、今回の仙台湾若林地区に届く津波到達と重なってくるということのようです。「海口哮吼」とあります。まさに津波が大口を空けて集落を呑み込むさまを言い表しています。結果として、「登山難及。溺死者千許」、高所に逃げることができず、溺死者数は千に及んだとあります。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO98087760V00C16A3000000/
http://www.histeq.jp/kaishi_32/HE32_019_038_Yanagisawa.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/貞観地震
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51686431.html
地震学会は政府に浜岡原発の即刻停止を勧告すべきです
2011年03月17日10:39
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51687932.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51690322.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51690957.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51696752.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51697650.html
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51698374.html
この図で、注目していただきたいことは、静岡から秋田につながる二本の線が描かれていることです。赤線は
中学時代に習う「糸魚川ー静岡」線、つまり「フォッサーマグナ」です。これが今から二十年ほど前に「プレート境界」ではないかと認識されたのです。ところが、この線からずれたところで1964年の新潟地震、2007年7月の中越地震が起きています。これらを鑑みて、北米プレートの日本列島内での境界線は、一本の線状ではなく、現時点では幅を持っているのではないかと思われるにいたったのです。というわけで、上図で、赤と青の点線はプレート境界であり、数十年または数百年後に一本の線に収斂するその前段階と思われるのです。
と、考えると、ニュートン誌、そしてTVに出演する三名の地震学者のコメントには、「それに言及したくない」との「政治的」思惑を私は感じています。三人の研究者はそれぞれ立派な研究者であり、秋田、長野、静岡の地震が北米プレートの西縁に発生しており、とすれば、それらは東海地震の発生と関わっているやも知れないとの危惧を抱いたであろう事は間違いないと思うからです。
(つづく)
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51700029.html
しかし、学会アカデミズムはそうした異端を許してこなかったのです。近畿以外の文明・文化は所詮は石器時代ないしは縄文時代の考古学発掘に留め起き、ひとたび文明を論ずるとなると「近畿」以外の九州・東北は差別の対象となってきたのです。又、そうしないことにはそれを論ずる研究者も差別され学会の主流外に意図的に放置されてきました。
梅原猛氏が精力的に追求したアイヌ文学には、かってアイヌ民族が現在の「いわき」から多賀をへて田老さらにはその北方で活動していた時代のもろもろが叙事されているはずです。ここには、哀しい津波にまつわる歴史も叙されているはずです。しかし、それらは日本古代文学者の関心を得るにいたらなかった。その結果、869年の津波地震も「想定外」の事件として片付けられてしまったと私は思います。古代史・古代研究者の方々には、「近畿」中心の「歴史観」からの呪縛から自らを解き放ち、日本列島全体の歴史に目を行き届かせる研究活動を求めたいと思います。そうであれば、何がしかの防災貢献がこの研究分野からも生まれるのではないでしょうか。
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死後の世界(転載)
[ロンドン 16日 ロイター]「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言
http://jp.reuters.com/article/mostViewedNews/idJPJAPAN-21136220110517
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地上からの熱線放射・電離層応答と地震予知
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/d/b/db7deca9.jpg
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https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/1/0/10837b94.jpg
VAN(2)
5月23日の記事で米国NASAの研究者による地震直前の電離層の電子増加を書きましたが、昨日の東京新聞でも同様が紹介されていました。日本の研究者による観測です。
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安積国造(1)
「あさか」は、「あ(み)さか」であり、「光り輝く須賀(そが)一族」あるいは、「火を神として信奉する須賀一族」の意であろうと書いてきました。そして、その一族の本拠の1つが郡山の阿邪訶根神社であったのだろうと思っています。ところで、郡山には「安積国造神社」もあります。阿邪訶根神社が前回書いたように「死への鎮魂」神社とすれば、「安積国造神社」は「生」の神社と位置づけられるのかもしれません。尤も、現在、この神社の主神は「菅原道真公」とされています。すでに繰り返し書いてきましたが「菅原」の「菅」は「須賀」に通じますから、奇異感はありません。
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https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/9/b/9b70e2eb.jpg
https://yamayama.jp/db/mountainview/mountainview.xml
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磐梯山
現在の天栄村の北は長沼町です。そこにある「岩瀬国造神社」は、天栄村と長沼町の境界から1キロメートル弱に位置します。ここが一族の鎮守神であったようで、長沼城祉もほぼ同じところにあります。此処からは、磐梯山を望むことが出来ます。そこで、此処からの磐梯山山頂の方位を計算して見ます。まずはグーグル地図で、神社と山頂の位置を示す緯度経度を求めます。それを用いて球面三角法によって計算します。計算結果は
d=39.5847(km),a=342.0686,b= 161.9845
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静神社(1)
八溝山の北麓に水源を持つ久慈川が大きく東に回りこみ南下を始めます。水郡線がそれに絡みつくようにして、共に南下をするのが淺川を過ぎたあたりからです。棚倉、近津には都々古別神社があります。途中「祝部内」、「中豊」といった興味深い地名があります。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51751581.html
静神社(2)
前回記事の最後に「こうして日本列島土着の宗教が根絶やしにされ、藤原不比等が構想する宗教に日本列島は席巻されてゆくのです。その1つが、聖徳太子信仰であったろうと思っています(後述)。」と、書きました。言うまでもなく、藤原不比等の真の意図は「天照大神」の「お披露目と定着」です。実際、「持統女帝と天照大神は重なり合う」とは、梅原猛氏の深い考察です。聖徳太子はそのいわば「前座あるいは引き立て役」として利用されたのです。日本書紀の一巻、二巻は日本列島での在来宗教の制圧と言う宗教戦争宣言書なのです。この宗教戦争は、所謂「神武東征」の前に達せられたのではなく、七世紀前半から八世紀末までの150年にもわたる長い期間にわたってなされたことを日本国民は忘れてはなりません。
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須賀川市西部
須賀川市の西部にある、長沼町、天栄町を議論してきました。その際、長沼の「沼」は「しょう」と音するのでそれは「背男」(せお)に由来するのだろうと書きました。しかし、何故その「せお」に「沼」という漢字をあてたのでしょうか?古事記を読み返していてそれがわかりました。須賀川を含めて、福島県の多くの地は、日本書紀で言うところの第十代祟神天皇紀が書く四道将軍の日本列島制圧、鎮圧とかかわっています。それを古事記で見ることにします(岩波文庫、102-104頁)。
%%%%%古事記、祟神天皇記
又此之御世。大毘古命者。遣高志道。其子建沼河別命者。遣東方十二道而。令和平其麻都漏波奴(中略)
故大毘古命者。隨先命而。罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別。與其父大毘古共。往遇于相津。故其地謂相津也。 是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平。人民富榮。
(後略)
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万葉集勉強今後の課題
万葉集が所載する「東歌」、「防人の歌」を解明する上で、我が父祖の地、福島を知ることは必須です。しかし、なかなかそれの調査が捗捗しくありません。現在須賀川西部の調査をしていますが、難しい点がいくつかあります。
(1)一つは、116度の問題です。この地では、冬至時の日の出方位はほぼ、120度です。120度は30度+90度でコンパスと定規で作成できる特別な角度です。しかし、古代の何時ごろかわかりませんが、この地の人々はあえて、この神聖な角度を4度だけ避けているのです。その背後にある「思想」を想像できていません。