2018年06月
(つづく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/近江国
https://ja.wikipedia.org/wiki/柿本人麻呂
アテルイの乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/アテルイ
鈴木拓也は、いわゆる夷語の音訳の問題であり、実際の発音は「アテルイ」と「アテリイ」の中間であろうとしている[6]。
続日本紀・巻三十九
原文:
《延暦八年(七八九)六月甲戌【壬申朔三】》○六月甲戌。征東将軍奏。副将軍外従五位下入間宿禰広成。左中軍別将従五位下池田朝臣真枚。与前軍別将外従五位下安倍猿嶋臣墨縄等議。三軍同謀并力。渡河討賊。約期已畢。由是抽出中後軍各二千人。同共凌渡。比至賊帥夷阿弖流為之居。有賊徒三百許人。迎逢相戦。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戦且焼至巣伏村。将与前軍合勢。而前軍為賊被拒不得進渡。於是。賊衆八百許人。更来拒戦。其力太強。官軍稍退。賊徒直衝。更有賊四百許人。出自東山絶官軍後。前後受敵。賊衆奮撃。官軍被排。別将丈部善理。進士高田道成。会津壮麻呂。安宿戸吉足。大伴五百継等並戦死。惣焼亡賊居。十四村。宅八百許煙。器械雑物如別。官軍戦死廿五人。中矢二百四十五人。投河溺死一千卅六人。裸身游来一千二百五十七人。別将出雲諸上。道嶋御楯等。引余衆還来。於是勅征東将軍曰。省比来奏云。胆沢之賊惣集河東。先征此地後謀深入者。然則軍監已上率兵。張其形勢。厳其威容。前後相続。可以薄伐。而軍少将卑。還致敗績。是則其道嶋副将等計策之所失也。至P4480於善理等戦亡及士衆溺死者。惻怛之情。有切于懐。
文意(続日本紀(下)宇治谷孟 訳、講談社学術文庫、412-413頁):
⑥を付した点線部分の文節に着目します:
原文は
『「荒振神等又石根木立草乃片葉辞語之昼者狭蠅音声夜者火光明国此乎事向平定大御神」止天降供奉』
と、あります。
文意(岩波古典文学大系「風土記」67頁より):
荒ぶる神等、又岩根・木立・草の片葉も辞(ことば)語(かたり)て昼は狭蠅なす音声をたて夜は火の光明(かがや)く国なり。これを平定せむと大御神と天降利使えまつる。
上記の文節は直ちに日本書紀の一節を連想させます:
%%%%%日本書紀 巻第二 神代下(冒頭)
《第九段本文》天照大神之子。正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。娶高皇産霊尊之女栲幡千千姫。生天津彦彦火瓊瓊杵尊。故皇祖高皇産霊尊。特鍾憐愛以崇養焉。遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、以為葦原中国之主。然彼地多有蛍火光神及蠅声邪神。復有草木咸能言語。
文意(岩波文庫「日本書紀(一)」、111頁より:
風土記の記載と日本書紀記事がほぼ同じです。このことの意味を次回考えてみたいと思います。
(つづく)
囂
(ゴウ、キョウ、訓は「かまびすしい」、「にぎやか」)なる漢字表記があります。赤枠の部分の文意(「風土記」岩波書店)は:
『景行天皇の時代、(九州の地に)行幸した際、蒲田の郷に宿をとった。御膳を薦めまつりしとき蝿が大変に鳴き、その声大いに「囂」(かまびす)しかり。天皇、勅(の)りたまひしく「蝿の声、甚だ「囂」(かま)し」とのりたまいき。よりて「囂」(鎌)の郷といいき。今、蒲田の郷と謂うは訛れるなり。』
と、文意を施します。
ところで、この「囂」が使われている歌が万葉集に収められています:
%%%%%万葉集01巻/0009歌
題詞:"幸于紀温泉之時額田王作歌",
原文:"莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本",
訓読:"莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本",
仮名:"***** ******* わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと",
%%%%%吉村誠・山口大学教授作成データベーシより
2018年04月
上で引用した学研「大漢和辞典」には「台」を次のように書いています:
(図:学研『大漢和辞典』、「台』の項目」。
p206(TAS-net)
https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/9/c/9c056c7c-s.jpg
2018年03月