行方郡(2)
前々回〔12月26日記事〕から「行方」なる地名の由来を考察しています。「行」を「なめ」と音させることの奇異です。大昔から、その奇異の解釈で僧・公家などの知識人が頭を悩ましてきた様子が窺えます。それは、現在の国文学者、古代史研究者にとっても同じです。
『行方』は和風訓では「ゆくえ」です。この地に達した「武王」又はその係累が「以後の“行く方向”について、思案」したなぞと言ったエピソードでもあれば、納得が行きます。しかし、それはそれで、違う問題を引き起こします。つまり進行方向を思案するに当たって「行方」になぜ「ナメカタ」なる訓をふったのか?と言う疑問です。
前々回〔12月26日記事〕から「行方」なる地名の由来を考察しています。「行」を「なめ」と音させることの奇異です。大昔から、その奇異の解釈で僧・公家などの知識人が頭を悩ましてきた様子が窺えます。それは、現在の国文学者、古代史研究者にとっても同じです。
『行方』は和風訓では「ゆくえ」です。この地に達した「武王」又はその係累が「以後の“行く方向”について、思案」したなぞと言ったエピソードでもあれば、納得が行きます。しかし、それはそれで、違う問題を引き起こします。つまり進行方向を思案するに当たって「行方」になぜ「ナメカタ」なる訓をふったのか?と言う疑問です。
ところで、この万葉集一歌にはもう一つ「なめ」が使われています:
01/0001,"雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌"
原文:,"篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母",
訓:"篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも",
上の原文中で「ハイライト」で示したように「師<吉>名倍手」です。「おし」が古代ペルシヤ語であるとするならば、「シキ」も古代ペルシア語に由来するだろうというわけで、字典を調べてみます〔黒柳恒男著、大学書林〕。「シキ」は『酒』を意味するのです。
こうして歌の全容が鮮明に見えてきました:
01/0001,"雜歌 / 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌"
原文:,"篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母",
訓:"篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも",
上の原文中で「ハイライト」で示したように「師<吉>名倍手」です。「おし」が古代ペルシヤ語であるとするならば、「シキ」も古代ペルシア語に由来するだろうというわけで、字典を調べてみます〔黒柳恒男著、大学書林〕。「シキ」は『酒』を意味するのです。
こうして歌の全容が鮮明に見えてきました:
2016年12月26日23:30
2016年12月23日23:30
2016年12月21日23:30
2016年12月19日23:30
2016年12月16日23:30
2016年12月14日23:30
2016年12月12日23:30
2016年12月09日23:30
2016年12月07日23:30
2016年12月05日23:30
2016年11月30日23:30
2016年11月28日23:30
2016年11月25日23:30
2016年11月21日23:30
2016年11月18日23:30
2016年11月16日23:30
常陸国風土記行方郡への前段
現時点でのテーマは香取の話です。それへの前置として、もう少し風土記の話を続けさせてください。風土記なるものは藤原不比等の日本列島史観を正当化し、補足するために作成されたものであることは疑いありません。しかし、その記載の行間に注意深く目を凝らすと、藤原不比等の政治的思惑がチラチラと顔を出しています。又、直接その歴史観に関わらないと思われる記載から、記紀では理解できなかったファクトが見えるやも知れません。
常陸国風土記を眺める際の注意点は「倭武天皇」に関する記載です。大方の後世の読者(鎌倉時代以後)は、以下のように常陸国史を理解しています。太古の昔にこの地には神がいた。その地は鹿嶋に居られもう人神は「フツ」神である。その後、今度は景行天皇と息子の倭武天皇が西からやってきてこの常陸の国を新たに治め(新治)た。さらには、孝徳天皇の時代に治世を整えるべく郡の整備が始まった。
現時点でのテーマは香取の話です。それへの前置として、もう少し風土記の話を続けさせてください。風土記なるものは藤原不比等の日本列島史観を正当化し、補足するために作成されたものであることは疑いありません。しかし、その記載の行間に注意深く目を凝らすと、藤原不比等の政治的思惑がチラチラと顔を出しています。又、直接その歴史観に関わらないと思われる記載から、記紀では理解できなかったファクトが見えるやも知れません。
常陸国風土記を眺める際の注意点は「倭武天皇」に関する記載です。大方の後世の読者(鎌倉時代以後)は、以下のように常陸国史を理解しています。太古の昔にこの地には神がいた。その地は鹿嶋に居られもう人神は「フツ」神である。その後、今度は景行天皇と息子の倭武天皇が西からやってきてこの常陸の国を新たに治め(新治)た。さらには、孝徳天皇の時代に治世を整えるべく郡の整備が始まった。
その一つとして、明らかになったのが、前回書いた「筑波命」、「紀国」です。この解明は藤原不比等の思惑を暴いたものと思っています。つまり、常陸国の七世紀以前の政情がうかびあがってきたからです。
さて、現時点の論点は那須岳―香取線です。とりわけ「息栖』神社と鹿嶋・香取の「要石」と「玉造」なる地が関わっているのかどうか?これについて風土記が何がしかを示唆しているかもしれません。
風土記は筑波郡に続いて信太郡を書きます。その記事に触れる前に、もう一度、常陸国を構成する郡を再掲します:
(図1:常陸国を構成する郡。赤丸番号は風土記に記載されている順番。番号の無い郡(河内、白壁)の記載は風土記に見当たらな
さて、現時点の論点は那須岳―香取線です。とりわけ「息栖』神社と鹿嶋・香取の「要石」と「玉造」なる地が関わっているのかどうか?これについて風土記が何がしかを示唆しているかもしれません。
風土記は筑波郡に続いて信太郡を書きます。その記事に触れる前に、もう一度、常陸国を構成する郡を再掲します:
(図1:常陸国を構成する郡。赤丸番号は風土記に記載されている順番。番号の無い郡(河内、白壁)の記載は風土記に見当たらな
前々回の記事で新治郡の記載に以下の件(くだり)があることを紹介しました(11月9日記事 ):
「為平東夷之荒賊、俗云阿良夫流尓斯母之、・・・・」
「風土記」校注者の植垣節也氏はこれを「東国で荒れ狂う野蛮な賊どもを平らげるために・・・」と解読します。上記の引用節で「俗・・・」は別人が後に書き込んだものと理解されています。その内容は「世間(俗)が言うには、荒ぶる西者・・・」と読み取れるというわけです。
この書き込み文についての解読について、校注者は「意味不明」であると率直に白状しています。私は、事実を知る反体制の知識人が、こっそりと書き込んだものではないかとの想像しています。正に「西」から来た軍隊が常陸国に侵攻してきたことを書いたのだろうと、言うわけです。この私の想像を上の地図と重ね合わせると、その事態が鮮明になります。
奈良から派遣された軍勢は東進し、毛野国(現在の群馬県、栃木県)を征します。、そこから東隣の常陸の国になだれ込んできたのです。なだれ込んできたのは「正に西から来た荒くれ共」なのです。この書き込みが「東夷之荒賊』と整合しない理由はここにあったのです。風土記の記載から背後の歴史真実が見えてくる瞬間でもあります。
さて、こうした視点から信太郡の話に移ります。下毛野国から常陸国へ侵攻した奈良の軍勢が次に陥れたのが筑波です。筑波郡の記載は、「ここにはかって王国があった」(紀の国)とありますから重要な軍事標的です。そして次に侵攻するのがこれから書く 南西部に位置する「信太郡」です。この地は、下総国に隣接しています。次回、その本文と背景を書きます。
(つづく)
「為平東夷之荒賊、俗云阿良夫流尓斯母之、・・・・」
「風土記」校注者の植垣節也氏はこれを「東国で荒れ狂う野蛮な賊どもを平らげるために・・・」と解読します。上記の引用節で「俗・・・」は別人が後に書き込んだものと理解されています。その内容は「世間(俗)が言うには、荒ぶる西者・・・」と読み取れるというわけです。
この書き込み文についての解読について、校注者は「意味不明」であると率直に白状しています。私は、事実を知る反体制の知識人が、こっそりと書き込んだものではないかとの想像しています。正に「西」から来た軍隊が常陸国に侵攻してきたことを書いたのだろうと、言うわけです。この私の想像を上の地図と重ね合わせると、その事態が鮮明になります。
奈良から派遣された軍勢は東進し、毛野国(現在の群馬県、栃木県)を征します。、そこから東隣の常陸の国になだれ込んできたのです。なだれ込んできたのは「正に西から来た荒くれ共」なのです。この書き込みが「東夷之荒賊』と整合しない理由はここにあったのです。風土記の記載から背後の歴史真実が見えてくる瞬間でもあります。
さて、こうした視点から信太郡の話に移ります。下毛野国から常陸国へ侵攻した奈良の軍勢が次に陥れたのが筑波です。筑波郡の記載は、「ここにはかって王国があった」(紀の国)とありますから重要な軍事標的です。そして次に侵攻するのがこれから書く 南西部に位置する「信太郡」です。この地は、下総国に隣接しています。次回、その本文と背景を書きます。
(つづく)
2016年11月14日23:30
2016年11月11日23:30
2016年11月09日23:30
2016年11月07日23:30
2016年11月04日23:30
2016年11月02日23:30
2016年10月31日23:30
2016年10月28日23:30
2016年10月26日23:30
東国三社(2)
渡来族・アイヌ族の連合体の南進方針の実施にあたり、五世紀半ばに設計された聖線の基点は八溝山、終点は鹿島でした。鹿島を越えた向こうは太平洋です。それから、およそ150年後の六世紀末に計画された新たな聖線の基点は那須岳です。ここからシリウス方位を辿り、且つ現在の利根川の向こう岸(南岸)となれば、それは香取又はそれ以南ということになります。何故、鹿島同様太平洋岸ギリギリまで、南へ伸張しなかったのか?鹿島に設営されている既存の拠点との”一身同体的”な役割を担うようにとの防衛的要請にあったのではなかろうかと想像しています。が、確たる論拠は今のところはありません。
渡来族・アイヌ族の連合体の南進方針の実施にあたり、五世紀半ばに設計された聖線の基点は八溝山、終点は鹿島でした。鹿島を越えた向こうは太平洋です。それから、およそ150年後の六世紀末に計画された新たな聖線の基点は那須岳です。ここからシリウス方位を辿り、且つ現在の利根川の向こう岸(南岸)となれば、それは香取又はそれ以南ということになります。何故、鹿島同様太平洋岸ギリギリまで、南へ伸張しなかったのか?鹿島に設営されている既存の拠点との”一身同体的”な役割を担うようにとの防衛的要請にあったのではなかろうかと想像しています。が、確たる論拠は今のところはありません。
2016年10月21日23:30
2016年10月19日23:30
2016年10月12日23:30
2016年10月07日23:30
2016年10月05日23:30
2016年10月03日23:30
2016年09月30日17:30
2016年09月23日23:30
2016年09月21日23:30
2016年09月19日23:30
2016年09月16日23:30
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