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万葉集:日本書紀:古事記:(14):20201008:鎌倉:阿夫利神社:大山:

万葉集:日本書紀:古事記:(14):20201008:鎌倉:阿夫利神社:大山:

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 鎌倉の地(2)、学術会議論議(2)

22:30 by 瓢箪虻

 

鎌倉(2)
 前回記事の最後に「鎌倉」を書きました。鶴岡八幡宮に通ずる2kmの参道は南々西から北々東に向かって走ります。北方向となす角は28度です。それは夏至日或いは冬至日の太陽の出没方位ではない。シリウス方位を明確に否定するべく設計し施工された参道であることが見て取れます。私は、この事実に鎌倉神社建造者の強い「シリウス方位」拒否の意思を感じます。
(図:鎌倉八幡宮の長い参道。拡大は図のクリックで)

 

 

 

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/b/5/b52810a4.jpg

 

 

 

法螺と戯言 : 阿夫利神社(4,再度大磯界隈),学術会議、党人派vs官僚派

阿夫利・サカと「稲城
 神奈川県伊勢原市の北西端に在する標高1262mの大山(丹沢・おおやま)頂上近くに亜夫利神社は鎮座します。大山の、言葉を変えれば神社の南に配されている一宮~三宮の呼称が、ゾロアスタ教を構成する八神(「ゾロアスタ教」、岡田明憲著)の内の三神の呼称を連想させることを書いてきました。いうまでもなく「阿夫利」が最高神・アフラマズダに由来した呼称であるので、それに驚きはありません。むしろ相模国ゾロアスタ教との密接な関係の傍証となっていると思っています。

 ところで、「密接な関係」を証拠立てるために本ブログで用いてきたのが「シリウス方位」です。ところがその「シリウス星」方位が相模国という現場に見つからないことが気になっていました。いずれ、その考察はせねばなるまいと思っていたところ、案の定、知人からその指摘を頂きました。改めて相模国を精査することとなりました。というわけで、前回の続きである「稲城」考察を次回に順延し、相模の国のゾロアスタ教痕跡の探索作業を今回の本ブログ記事で書きます。

 

 

 

 

 

 

法螺と戯言 : 阿夫利神社(4,稲城),半沢直樹感想(与党幹事長),菅政治(三橋貴明氏)

 

阿夫利神社(5)
日本列島古代史を議論している本ブログの昨今の記事の主役は「麻生」、「菅」なる呼称です。それだけをブログ記事で連呼していると、まるで現今の日本の政治状況を考察しているのではと勘違いされそうです。本ブログ管理人は東国生まれの東国育ちです。そして、八世紀の初頭、ゾロアスタ教最高神であるアフラ・マズダ(漢字音写は「麻生里」または「阿夫利」など)を信奉するサカ族(漢字音写は「菅」、「須賀」、「栄」、「佐賀」、「桜」、「蘇我」 など)は奈良の「大和朝廷」(この呼称も八世紀初頭後に生まれた)による残虐な軍事行動に殲滅されました。一部の残党がその殲滅を逃れ、遠く東北日本に逃れ、くすぶった火が燃え上がるかのように時たま反乱行動を起こしたのです。それが八世紀末の岩手の「アテルイ」の乱です。またくすぶった火は燃え上がらずとも地下に沈潜し白山信仰のような宗教を生みました。

 

 

 

法螺と戯言 : 阿夫利神社(3),官僚論(古賀茂明氏)、村木事件(郷原氏)

阿夫利神社(3)
 日本に渡来した「蘇我」一族の出自は古代ペルシアとその周辺に盤居したサカ族であると渡辺豊和氏は自著で主張しています。経済学者の栗本慎一郎氏が説得力ある論拠を調べた上で、その主張に同意しています。このサカ族の出自、地域的分布、そしてインド、「中国」王朝の版図周辺の諸族、および漢王朝との接触などについては多くの研究があります。杉山氏は以下を「遊牧民から見た世界」(日経ビジネス新書)で書いています。それによれば「中国歴代の王朝は、自らの周囲に跋扈する部族を蔑んでいた。ところが実際の交渉ではひたすら怯え、彼らの言いなりであった。人質を差し出して、彼らが領土内に侵略していることを防いだ。王昭君9Bの事例からもそれは明らかだ」と。  

 日本書紀には「香々背男」なるシリウス星信奉者が登場します。私はこの人物は「高昌(トルフアン)」ゆかりの人物であろうと本ブログで書きました。サカ族と中国王朝および周辺の部族との接触について世界の専門家たちはそれを当然視していたけれども物証が無かったといいます。それを裏付ける古文書が発見されたのは1970年代であり、それは「高昌文書」の中であったといいます(書名が不明ですがその第三部「西風中原に至る」の第四章「ゾロアスタ教東方へ」より、336頁)。

 

 

 

法螺と戯言 : びっくり!産経主張、日米関係、阿夫利神社

ゾロアスタの神々
 茨城県霞ヶ浦と北浦にはさまれる現在の行方市について常陸国風土記は最も多くの字数を費やしています。そこには「ヤズド」(Yazda, ゾロアスタ教の諸心霊の統合表現)が露に明記されています。その漢字による音写が「夜刀」(ヤツト)です。しかし、「夜刀」についての学者さんの認識は混迷し、結局解明されずに今日まで放置されています。
 「夜刀」がゾロアスタ教の「ヤズド」であると見抜いた途端に、常陸国古代史の様相がよりはっきりと見えてきます。具体的には、地名とゾロアスタ教ゆかりの神々が重なってきます。その一つが「麻生里」(アフリ)で、ゾロアスタ教の最高神アフラ・マズダ(ahura mazda)」の「アフリ」(天空の意味)に由来するであろうと前回記事に書きました。そうとするならば「明」を意味する「マズダ」を連想させる地名もあるのだろうか?それを探してみます。

 いずれ、詳しく調べたいと思っていますが、ひとつは「馬頭観音」です。「観音」についての考察はさておき、「馬頭」は「マズ」と音することができます。ウイキは以下を書きます:
馬頭観音(ばとうかんのん、梵: हयग्रीव、hayagrīva[1]、ハヤグリーヴァ)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。梵名のハヤグリーヴァは「馬の首」の意である。」
 通説では、インドからの伝来信仰が日本列島内においてその「表意」を列島内の言葉に置き換えているとされています。私はそうではなく、これもゾロアスタ教の神名の音写ではなかろうかと考えています。
 次の事例はJR常磐線駅「松戸」です。「松戸」なる名称は最近ではなく遠く時間をさかのぼることができると市広報に書かれています。近くに「岩瀬」(石世)なる地の古墳があるとのこと。岩瀬は渡来民の本拠地であったことは本ブログで書きました。賭するならば、松戸がマズダに由来する、あるいは何がしかの関連がある可能性があります。さらには、江戸川をはさんだ反対側には「葛飾柴又帝釈天」があります。帝釈天ゾロアスタ教の「武神」でもあるとウイキは書いています。柴又帝釈天そのものは十七世紀とウイキは書きます。が、その地には大昔からの渡来民に関わる何がしかの伝承がありその地にこの「武神」をすえたと考えることができるのかもしれません。

 もう一つの事例は神奈川県の松田です。平安時代には「松田」を名乗る武家がいたとウイキは書きますから、どうやらそれがゾロアスタ教の神に由来する可能性はあります。そこで、周辺の地図をなめるように眺めると、JR御殿場線松田駅から北東方向15kmになんと「大山阿夫利(あぶり)神社」があります。
 江戸の庶民が遠方のお伊勢参りのかわりに詣でた「大山詣で」の目的地である大山阿夫利神社です。この分社が北関東には少なくありません。%%%%%大山阿夫利神社
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国延喜式内社十三社の内の一社で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁別表神社)。
本社に大山祇大神オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ、見たことのない難しい漢字)を祀る。
ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。

 

 

 

法螺と戯言 : 六世紀末に相模湾で大地震が発生した(川匂神社と異臭)?

22:30  by 瓢箪虻

鎌倉(4、補記、関東地震か?)
 大山阿夫利神社から見た大磯町・神揃山の方位位置が162度であり、戸塚市の富塚八幡宮から見た鎌倉・鶴岡八幡宮の方位位置も162度であることを書きました。この二つの方位角度がシリウス星の天空上の相模の国から観測した位置と考えると、その観測をしたときは西暦570年ごろ(精度は士20年ほど)と推定できます。相模湾に面した二つの地点でほぼ同じときにシリウス星に向かって神託を請うたのです。このころに、相模の国を取り囲む政治・軍事環境の危機、あるいはもっと大きく日本列島周囲の政治環境の激変が出来(しゅったい)し、それへの緊急の対応が求められたのではなかろうか、と前回記事で書きました。日本書紀はそのころの事件として西暦562年(欽明天皇二十三年)の朝鮮半島南端部の倭国支配下にあった任那朝鮮半島政治勢力の間の争闘を書いており、岩波文庫日本書紀」・校注者の解説を紹介しました。解説はこの事件について一つの視点として西暦562年(欽明天皇二十三年)の<a href="https: ja.wikipedia.org="" wiki="" %e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%8f%b2%e8%a8%98"="" target="_blank" title="" style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: "Hiragino Kaku Gothic Pro", "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "MS Pゴシック", sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: rgb(255, 255, 255); text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial;">「三国史記」 を引用しています。この書についてはその真偽がいろいろ取りざたされています。一番有名なところでは乙巳の乱(西暦645年)とそっくりな政変が朝鮮半島で起きていたと書きます。一部の歴史学者は、日本列島古代史での「乙巳の乱」は朝鮮半島の政変を我がことのように書いたもので、この「乱」はなかったと主張しています。朝鮮半島南端部での政治紛争が実際にあったとしても、相模国がそれへの対応策を取ったということは不自然です。朝鮮半島から遠い太平洋側で緊急の対応策が必要であったとの理解には「風が吹けば桶屋が儲かる」式の一理屈が必要になります。</a href="https:>

 

 

法螺と戯言 : 欽明二十八年紀が書く大水は津浪?、いよいよ特高警察のお出ましか!

22:30 

by 瓢箪虻

 

稲城(3)
 前々回、および前回記事では、西暦570年ごろ(シリウス方位から推定した年代)に相模湾に大きな地震が起きたのではないかの想像を書きました。同年代の欽明天皇二十三年紀記事(日本書紀編年では西暦562年)は、朝鮮半島倭国支配下にあったとされる任那新羅から攻撃を受け、同地を支配された云々(でんでん)なる出来事を書いています。日本書紀の頁を更にくくると日本書紀・巻十九・欽明天皇二十六年紀に以下の記述があります。
原文:
欽明天皇二八年(五六七)郡国大水。飢。或人相食。転傍郡穀以相救。

文意(岩波文庫日本書紀(三)」340頁:
欽明天皇二八年(五六七)に郡国(くにぐに)大水いでて飢えで苦しみ或人は相(とも)食いもせり。傍の郡(こおり)が穀を以って、救ける。

 西暦567年に「どこぞで大水発生」との記事です。これぞ、相模湾に発生した巨大地震が引き起こした巨大津浪ではなかろうか!との短絡思考に走りたくなります。しかし、本ブログでは日本書紀の編年には「仕掛け」が施されており、その記載には注意深い精査が求められると書いてきました。
 自分の描く歴史のシナリオにそぐわないと「これは記紀に施された捏造」であると言いながら、都合のよい記載にはそれを「無条件に認めてしまう」というのが在野の歴史愛好家の「やり口」です。こうした非難をなんとかかわせないものか?

 岩波文庫版校注者はこの条について「漢書の一文の丸写しである」と、解説で書いています(同書342頁)
 確かに漢書は以下を書いているとのことです:
 漢書元帝紀、初元元年九月条の文「関東郡国十一大水、飢。或人相食。転傍郡銭穀以相救」

 日本書紀にあっては、上記の記事は、二十六年の高麗人の帰化(落ち着き先不明)、三十年は「租」に関する記事というわけで前後の関連性は全くありません。脈絡のない記事の列記に挟まれた記事の中から、こうした短文を漢書に見つけたのです。この短文を見つけ出したのは日本書紀・編纂者、具体的な執筆者ばかりではありません。1200年後の現代にあって、漢書出典を見つけた校注者にも感心してしまいました。
 私は、「大水」の事件は西暦567年に実際に起きており、一世紀半近くに渡ってその災害は伝承されていたと想像しています。「大水」は津浪であり、それは相模川を陸地奥まで遡上してのではなかろうか。藤原不比等は自らが指揮を執って編纂する日本列島政治史の信憑性獲得のため、特に史書の中で脈絡はないものの、この史実をしかるべき「年」に埋め込んだと考えています。伝承は詳細を伝えないので、当該執筆者は「漢書」の表現を探し出してそれを挿入したのです。
まとめますが、相模湾で発生した大地震とそれに伴う大津波および海水の遡上によって住民に多大な被害があったと仮説します。その災害鎮静のために「神揃山」にまずはティッシュタル(シリウス星)を恒常的にあがめていることの証を設営したのです。同じ目的で鎌倉にも設営されました。それが西暦570年ごろ、すなわち六世紀後半です。さらには、災害の形態に応じて、大水に抗する「アンーターヒ」神を祀る聖所が設定されたと思っています。この名称が土着の民に語り継がれ、後年その地に「多々比神社」なるものが建造されたけれども、それが「大水」からの災害を除けることは忘れられた。大地の揺れからの恐怖から民を守るはずの「サブ」神の聖所も同様な経過を辿りその音写として漢字に「寒」をあて、後年「寒川」神社なるものが作られたと想像しています。しかし、これについてもその由来までは近隣の民には伝えられず、誰を祭神とすべきかに困惑したはずです。そうした経緯を想像させるのが上記二つの神社に関するウイキ記事です。
 川匂(かわわ)神社については、祭神が「風」であることを考慮して前回記事で私の想像を書きました。本日以下のような記事をインタネットでみつけました。どうやらこのところ大きな話題となっていた異臭の成分はわかりつつあるそうです。しかし、その発生元は不明です。調査当局によれば、次は三浦半島から横浜にまで及ぶ広域の「臭い」現象の解明に入る、と記事は書いています:
参考:解明に大きな一歩!「横浜の異臭」採取&分析がついに初成功した意外な理由
前回の10月11日記事,「六世紀末に相模湾で大地震が発生した(川匂神社と異臭)?」,で書いたことを裏付けるような記事をネットで見つけたので紹介しておきます。
参考記事:文献が示す「異臭」と「地震」の関係 神奈川で相次ぐ異臭騒ぎ 関東・阪神淡路大震災の前後に“ガスの記録”