https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
- 関白辞令の宣旨[32]
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- 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。
天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る
- 関白辞令の詔書
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原
朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、
天正十三年七月十一日
— 「天正六年以來關白詔勅書」
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- 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す、夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日
天正14年、いよいよ秀吉はその氏を「豊臣」と改める。
松下家臣時代
はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗
天正13年(1585年)7月、関白叙任に際し前関白近衛前久の猶子となり、氏を平から藤原に改める。
天正13年(1585年)の「正二位内大臣」まで、その氏名は一貫して「平秀吉」と記され
天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され[28]、これにより公卿となった。この際、将軍兼任を勧められたがこれを断る[29][注釈 22]。
天正11年(1583年)の項に「従四位下参議」としてはじめて記載
羽柴
を名乗る、改名年月の定説はまだないときく。
木下藤吉郎
【豊臣秀吉の年表・データベース】百姓から天下人まで上りつめた秀吉の誕生から没まで
http://kameyamarekihaku.jp/rekisi-hiroba/tyu-sei_monjo/web24_cyuseimonjyo/web24_cyuseimonjyo_indx.html