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1590(天正18年)庚寅:北条氏が降り、秀吉の全国統一がなる

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1590(天正18年)庚寅:北条氏が降り、秀吉の全国統一がなる

 

コメント(20)

   

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近畿の水土里 歴史年表
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/midori/nenpyou/index.html#abc削除

2011/6/9(木) 午前 0:11ogw*og*3 ]返信する

   

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18年 
4月5日 - 豊臣秀吉小田原城を包囲(小田原の役)
7月5日 - 小田原城を開城し、北条氏直が降伏
19年 
2月28日 - 千利休が自害

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2011/6/9(木) 午前 0:26ogw*og*3 ]返信する

   

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17年 
5月29日 - 豊臣秀吉の長男、幼名は捨(+ 天正19年)
18年 
2月11日 - 井伊直孝近江国彦根藩主、井伊直政の次男(+ 万治元年)
出生
http://ja.wikipedia.org/wiki/天正削除

2011/6/9(木) 午前 0:28ogw*og*3 ]返信する

   

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17年 
6月12日 - 上井覚兼、島津家の家臣(* 天文14年)
18年 
1月14日 - 朝日姫、徳川家康正室(* 天文12年)
5月27日 - 堀秀政、戦国期の武将(* 天文22年)
7月11日 - 北条氏政、戦国期の武将(* 天文7年)
7月11日 - 北条氏照、戦国期の武将(* 天文9年) 生年は異説有り
9月4日 - 狩野永徳、戦国期の絵師(* 天文12年)
19年 
1月22日 - 豊臣秀長、戦国期の武将、豊臣秀吉の異母弟(* 天文9年)
2月28日 - 千利休、戦国期の茶人(* 大永2年)
7月 - 南条元続、戦国期の武将、伯耆国戦国大名(* 生年不明)
8月5日 - 豊臣鶴松、豊臣秀吉の長男、幼名は捨(* 天正17年)
9月20日 - 九戸政実、戦国期の武将(* 天文5年)
11月4日 - 北条氏直、戦国期の武将、戦国大名(* 永禄5年)
死去
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2011/6/9(木) 午前 0:32ogw*og*3 ]返信する

   

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天正十八年(庚寅) 一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月 
グレゴリオ暦 1590/2/5 3/6 4/5 5/4 6/2 7/2 7/31 8/30 9/29 10/29 11/27 12/27 
ユリウス暦 1590/1/26 2/24 3/26 4/24 5/23 6/22 7/21 8/20 9/19 10/19 11/17 12/17

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2011/6/9(木) 午前 0:34ogw*og*3 ]返信する

   

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1590
天正18
2 20
上田憲定、小田原籠城につき、木呂子丹羽守等に松山城中の後事を託す。 市史2-No1043

2 28
上田憲定、犯科人・負債ある者にも参陣を促し、扶持・褒美・取立てなどを約す。松山城代上田河内守。 6-No.1514『武州文書』

3 11
上田憲定、小田原陣中から松山本宿・新宿町人衆に宿中の者総ての松山籠城を呼び掛ける。 6-No.1516『松村家文書』

4 20 松井田城落城。 『埼玉県史通史編2』
4下
松山城攻略 『埼玉県史通史編2』
この頃、江戸城箕輪城・佐野城・前橋城落城。 6-No.1532
5 3 河越城落城。 『埼玉県史通史編2』
5 20 岩付城、討死1000人余を出して落城。 『埼玉県史通史編2』
6 14 鉢形城落城。 『埼玉県史通史編2』

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2011/6/12(日) 午後 7:33ogw*og*3 ]返信する

   

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6 23 八王子城落城。 『埼玉県史通史編2』
7 6 小田原城落城。 『北条記』等
7 16 忍城落城。 『埼玉県史通史編2』削除

2011/6/12(日) 午後 7:33ogw*og*3 ]返信する

   

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1590年 (天正18年) かのえとら 庚寅 ■家康江戸城に入る
http://www.weblio.jp/content/1590削除

2011/6/13(月) 午後 11:40ogw*og*2返信する

   

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他の紀年法 [編集] この節は、ウィキプロジェクト 紀年法ガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。 
凡例[表示]

干支 : 庚寅
日本 
天正18年
皇紀2250年
中国 
明 : 万暦18年
朝鮮 
李氏朝鮮 : 宣祖23年
檀紀3923年
ベトナム 
莫朝 : 興治3年
後黎朝 : 光興13年
仏滅紀元 : 2132年 - 2133年
イスラム暦 : 998年 - 999年
ユダヤ暦 : 5350年 - 5351年
ユリウス暦 : 1589年12月22日 - 1590年12月21日

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2011/6/13(月) 午後 11:50ogw*og*2返信する

   

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住友金属鉱山創業(住友家の業祖、蘇我理右衛門が京都に銅吹所を設ける)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/1590削除

2011/6/13(月) 午後 11:54ogw*og*2返信する

   

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天正18年(1590)3月1日に、秀吉は京都を出発。

、7月5日、ついに小田原城を開城。氏政・氏輝などの北条一族は死罪となったが
、氏直だけは助命され、高野山に送られた。


http://blog.livedoor.jp/zuihitu/archives/50727797.html削除

2011/6/14(火) 午前 0:00ogw*og*2返信する

   

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後北条氏(ごほうじょうし)
戦国時代に相模国(神奈川県)小田原に本拠を構えた戦国大名の一族。正式には単に「北条」姓なのだが、鎌倉時代の執権一族が北条姓であり、これとは全く出自も異なることから、区別するために、便宜上、「後北条氏」といわれる。


http://blog.livedoor.jp/zuihitu/archives/50727797.html削除

2011/6/14(火) 午前 0:03ogw*og*2返信する

   

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初代は早雲であるが、彼の前名は「伊勢新九郎長氏」と言う。ある時、小田原城を謀略をもって奪取し、下剋上の先駆けなどといわれることも多い。「早雲」という名乗りはよく知られているが、彼は生前にその名を名乗ったことはないらしい。従って、北条姓を名乗るのは、次代の氏綱からということになる。

2代氏綱、3代氏康は、戦国大名として申し分ない力量を持った人物で、北条氏の国力は関東一帯に広がっていった。4代氏政も国力増強に努めたが、5代氏直のころには、中央で豊臣秀吉の勢力が増大し、やがてこれの来攻を招く。

氏直は健在だった父・氏政や家臣たちと相談して、籠城戦術をとったが、秀吉に完全包囲されたうえ、重臣の離反などを招き、ついに小田原城は落城。ここに後北条一族は小田原から姿を消すのである。氏政他、北条一族はほとんどが死罪となったが、氏直だけは特別に赦されて、高野山流罪となった。

ちなみに一族は、江戸時代には、上方の小大名として存続している。削除

2011/6/14(火) 午前 0:04ogw*og*2返信する内緒

   

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天正十八年庚寅十月十三日、敬白」、裏には「前嶋縫殿鋳之」と刻まれています。

懸仏は、平安時代中期以降の神仏習合から生まれた造形で、従来、神社で御霊代として造られた鏡板の表面に本地仏を描いたものです。

http://www.city.noda.chiba.jp/syoukai/bunkazai/funakatahatiman.html削除

2011/6/14(火) 午前 0:07ogw*og*2返信する

   

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山形県鶴岡市
財団法人致道博物館
豊臣秀吉が酒井家2代目家次の妻子のいる岡崎城下屋敷について軍勢陣取の停止及び留守居に入れおいた者までの出入りを禁じた内容である。当時酒井忠次はすでに隠居しており、天正18年(1590)の小田原攻めは家次が出陣している。なお朱印状は花押の代わりに朱印を押した公文書で、江戸時代になると将軍に限って発行した。

当屋敷事妻子
在之二付軍勢陣
取一切令停止上者
城留主居二入置者共
迄茂不寄上下出
入有間敷候若違
犯之輩在之者可加
成敗者也
天正十八
二月六日 朱印
三河岡崎城
坂井左衛門留守居

箱書 
寛政三歳次 辛亥 
須貝玄益所持之

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do削除

2011/6/14(火) 午前 0:16ogw*og*2返信する

   

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天正6年(1578)6月、京都本能寺において盟友関係にあった織田信長明智光秀に謀殺されるなどの急変に、武田方の遺臣や諸豪族たちはその帰属に迷う状況にあった。そこで家康は無主になった甲斐、信濃に進出し版図の拡大を図る。削除

2011/6/14(火) 午前 0:23ogw*og*2返信する

   

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本状は、甲斐に在陣中の家康が酒井忠次信濃の統治を委ね、その治め方を5ヶ条にわたって命じた定め書きである。信州12郡の侍衆より棟別銭、諸役を異議なく徴収し、徳川氏に対する奉公に倦怠する者は国外に追放し、国内が統一するまでは夫々本知のままに安堵し、統一完了後は、先例にかかわらず、一応本知を上らしむべく、もし違乱の輩あれば宜しく処分すべしと命じた内容である。この大任を負わしたことは、忠次の重臣としての地位を明らかにしたものといえる。削除

2011/6/14(火) 午前 0:26ogw*og*2返信する内緒

   

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一、信州十二郡棟別四分之一、其外諸役不入手等出置事
一、従国引付候面々、可為其方計、付信州無一篇間、奉公令退屈缺落候人、分国可相払
国衆同心内者、上下共同前事
一、国中一篇納候上も、弐年本知令所務、其上者可被上、十二郡不納間者本知相違有間敷候、国衆同心同前事
一、国衆同心在国之衆者、其方同前可有走舞、信州一篇之間者、何も可令同心少も於違乱之輩者、可加下知事
一、 信州若不和成、於有相違者、前々知行無異儀可申付、并国衆同心同前之事 右条々、永不可有相違、縦先判雖在之、出置上者、一切不可有許容者也、仍如件
天正拾年壬午 
七月十四日 家康(花押)
酒井左衛門尉殿削除

2011/6/14(火) 午前 0:26ogw*og*2返信する

   

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天正18年1 590 2011年04月19日(火) 23時38分 
八王子城は高尾山の近く。3500人の守りに対し豊臣勢5万人の夜襲。本丸は海抜460mの山城。
城主は大半の兵とともに小田原城の守備につき、不在。地名と時間をたどりながら戦記を読む緊迫感。圧倒的な原発放射能勢力と戦う、農民一揆の如し。実際、山の背面(搦め手)を守ったのは、百姓、神官、僧侶、修験者・老若男女とある。
ゲリラのように結構手ごわかったらしい。しかし1日で陥落全滅。

http://yaplog.jp/cobutan/archive/1056削除

2011/6/14(火) 午前 5:23ogw*og*3 ]返信する

 

 

 

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2011/6/12(日) 午前 11:41 [ CQF ]

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