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万葉集:日本書紀:古事記:(15):20201121:景行天皇: 藤原不比等:稗田 阿礼:

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稗田阿礼 - Wikipedia

ja.wikipedia.org

生誕 斉明天皇5年(659年
死没 養老4年8月3日720年9月9日

 

『日本書紀』を編纂した中心人物・藤原不比等の意図とは |BEST TiMES(ベストタイムズ)

 

 

 

景行天皇 - Wikipedia

 

法螺と戯言 : オバマ氏による鳩山氏短評、景行天皇の息子、久しぶりに児玉先生

 

景行天皇(3)

 

 

 

法螺と戯言 : 吉備と景行天皇、竹中氏の脱税、赤木氏自死の真相

21:00 by 瓢箪虻

 

景行天皇(4)
 景行天皇記(「記」は古事記からの引用と言う意味、「紀」は日本書紀)の冒頭に登場する三人の息子の内の二人に「うす」が付されている。「臼杵」なる地名が、津久見のすぐ北にありますが、その「ウス」はこの息子の名前に由来するのではないか。そうとすれば、これも天皇の政治拠点である「日代宮」が現在の津久見市であったことを示している、と前回記事で書きました。古事記を更に読み進めると同様の事例が見つかります。
 景行記は冒頭に「系図」とでも言うべき人物名を羅列した後に、まずは次男と言うべき大碓命についての愚痴を書きます。
%%%%%景行記。大碓命の条
原文:
於是天皇。聞看定三野國造之祖。神大根王之女。名兄比賣。弟比賣二孃子。其容姿麗美而。遣其御子大碓命以喚上。故其所遣大碓命。勿召上而。即己自婚其孃子。更求他女人。詐名其孃女而貢上。於是天皇。知其他嬢。恒令經長眼。亦勿婚而惚也。 故其大碓命。娶兄比賣。生子。押黒之兄日子王。〈 此者。三野之宇泥須和氣之祖。 〉亦娶弟比賣。生子。押黒弟日子王。〈 此者。牟宜都君等之祖。 〉 此之御世。定田部。又定東之淡水門。又定膳之大伴部。又定倭屯家。又作坂手池。即竹植其堤也。

 

 

 

法螺と戯言 : 首相辞任背後のおどろおどろしい闇(安富氏)、稗田阿礼の実像に近づく

 

ササーン朝・ヤズデギルドIII世の側近・達阿
 須弥山をつくった斉明六年五月の二ヵ月後の七月にこの築造にかかわっていた(多分土木技術指導)に関わっていたと思われる都貨羅(トカラ)の人で波斯(ペルシア)人の「達阿」が帰国したいと申し出ます。このペルシア人でトカラにいた「達阿」なる人物はイスラムによって滅ぼされたササーン朝・ヤズデギルドIII世の側近であったろうと伊藤義教氏は分析します。
 この「達阿」なる漢字表記名を岩波文庫校注者は「ダチア」と仮名を振ります。校注者はさらに補注という別枠で続きを議論しますがそれはもっぱら都貨羅(トカラ)の所在地で、日本の多くの古代史研究者たちがあれこれと考察をしていたことがわかります。因みに校注者は「トカラ」を現在のタイ国と考えていたようです。
 さて、ペルシア人である達阿なる人物名の「表音」漢字が考え出された経緯を伊藤氏は洞察します。伊藤氏の考察はやや複雑です。漢語をネーティブとする大陸人による書物を参照したのではなく、日本列島在住の漢語に熟達した日本書紀執筆者が考え出した「漢字表記」であったと前提します。この熟達者はペルシア語の「音」の表記に当たって「梵語音」なるものを用いたと伊藤氏は指摘します。そう考えると「達」は「dhar-」の表音(写音)漢字である。例えば「達磨」は「ダルマ」と「音」します。「達阿」なる人物の呼称は、日本書紀校注者が付する「タチア」ではなく、「ダーラーイ」(Daray)であると論じます。

 伊藤氏の「ペルシア文化渡来考」を神田の古本屋で見つけたのが十年ほど前です。正価格1700円の本を1000年で入手しました。しかし、当時の問題意識とのずれもあってか、上に書いたような記載の重大性に長く気づかずにいたことはまことに迂闊でした。なぜ、こうした自己批判をここに吐露するのでしょうか?伊藤氏は更なる重大な示唆をしていたのです。再び日本書紀に戻ります:
“乾豆波斯達阿”の“乾豆”は“K’ien-dug”で”Hindug”を示すイラン語系呼び名の写音したものであると伊藤氏は書きます(同書14頁)。かくして“乾豆波斯達阿”はカナ文字表記すると「ヒヅ・ペルシア・ダーライ」、そこから“ペルシア”を省略すると「ヒヅ・ダーライ」
となります。この音から直ちに連想できるのが「ヒエダ・アレイ」すなわち「稗田阿礼」は古事記編纂者による「音写」漢字と考えることができます。
稗田阿礼」といえば、学校の歴史の時間で必ず生徒が教わる人物です。

 

 

法螺と戯言 : 金錯銘鉄剣・銘文を考える(3)、志村けん逝く

23:00 by 瓢箪虻

 

稗田阿礼の供述(3)
 2013年7月12日NHKBSの歴史館番組にビデオ出演した森博達氏の発言を念頭において、再度金錯銘鉄剣の銘文をみなすことにします。その上で、日本書紀に登場する「若建王」(ワカタケル)王の議論に戻ることにします。
 「ワカタケル」(獲加多支鹵)大王の出自が遠く西域古代ペルシアであるとするなら、刻まれる銘文に登場する人名らしき漢字列、統治に関ると思われる「名詞」群は古代ペルシア語あるいは渡来一族に由来する言葉と考えることができます。それは、前回記事で書いた2013年7月のNHKBS・TV 番組での森博達氏の指摘とも矛盾しません。森氏は「銘文は土着の言語」であり、「奈良中央とは無関係であろう」と古代史の専門家諸氏を前にして(尤も、森氏はビデオ出演であり、「前にして」なる表現は正確でありませんが)指摘しました。この指摘を耳にした専門家諸氏の反応、というより「無反応」が私には大変印象的でした。時間を計ったわけではありませんが、専門家諸氏はかなり長い時間沈黙を保ちました。そしてTVプログラムは、森氏指摘への列席専門家群からのコメント無くして先へ進んでしまったのです。これは驚きでした。

 

 

 

法螺と戯言 : 山中伸弥博士の提言、梁書東夷伝より(倭国の条)

23:30 by 瓢箪虻

 

稗田阿礼の供述(4、扶桑国王・乙祁)
 「獲居」は「カクキョ」がつばまった「カッまたはケッ」ではなかろうか、と前回記事で書きました。私はこの「発声」から直ちに連想したのが梁国(梁 (南朝) - 南朝のひとつ。南北朝時代に蕭衍(武帝)が建てた王朝(502年 - 557年))・梁書・東夷条が書く扶桑国です。
%%%%%梁記。倭国
梁(りょう、502年 - 557年):中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。
 
 『梁書』諸夷傳(東夷条) 唐姚思廉撰 
扶桑國者、齋永元元年、其國有沙門慧深來至荊州。説云「扶桑在大漢國東二萬餘里。地在中國之東、其土多扶桑木。故以爲名。(中略)名國王爲乙祁、(後略)

 

 

法螺と戯言 : 仁徳天皇から推古女帝(2)、東京で感染爆発か

23:00 by 瓢箪虻

 

稗田阿礼の供述(2)

 

 

 

法螺と戯言 : 安倍氏:一難(コロナ)去ってまた一難(森友)、古代天皇の系図

23:30 by 瓢箪虻

 

七世紀半ば以前の天皇系図作成(1)

 

 2020年2月21日記事 で書いた事情が、古事記日本書紀の編纂経緯を改めて振り返る契機となりました。現存する古事記が何故に推古天皇紀で終わっているのか、そして推古紀に遡る十二代前までの天皇紀の内容がすこぶる乏しい理由を自らの問題意識の一つにのぼせました。

 大陸中国王朝の「正史」を真似して、日本列島現代・近代政治史(「正史」)編纂を目論んでいた藤原不比等には想定外の事態が編纂作業中に発したのであろうと私は想像しました。一つは八世紀以前の日本列島を叙事した万葉集の出現です。日本列島内とはいえども、奈良盆地の外の事情に疎い藤原不比等にとっては、万葉集が語る豊かな日本列島内のさまざまな出来事を「日本列島現代・近代政治史」から除外することはできなかったのです。東国の政情については、すでに捕縛していた稗田阿礼の口を通じて相当程度のことは知っていたと思われます。因みにこの人物は東の倭国の「語り部」(叙事担当)であったと思われます。言葉を変えればこの人物の出自は古代ペルシアであったと私は考えています。ラテン文字表記「farye」は「のろい」を意味します。これが[阿礼]の原義とするならば、この人物は渡来人一族で宗教儀式にかかわっていた。すなわちシリウス星の方位観測、そしてその方位から託されるゾロアスタ教の聖なる存在からの「宣」を感受し口伝する立場にあったのではなかろうかと思えます。ラテン文字表記「yade」は古代ペルシア語の「記憶」を意味します。「yade farye」と音される人物こそ稗田阿礼ではなかろうかと考えています。

 

 

 

法螺と戯言 : 舒明紀(7,不比等史観の要),日米不平等貿易条約,高校生の国語力

23:30 

by 瓢箪虻

舒明紀(7、藤原不比等史観の要(かなめ))
 神武天皇の東征途上に立ち寄った場所は、かっては倭国(後世「蝦夷」(えみし)と蔑称される)の支配下にあった地であったと、現ブログ管理人は仮説しました。すなわち、「神武天皇」なる人物の実像は、壬申の乱で敗残した倭国王であると考えたのです。だからこそ日本書紀にあって、この巻きとそれに続く一連の巻は、とりわけ入念に細工を施すことが必要となったのです。当然、その記載は漢語ネーティブな大陸人にはゆだねられません。そうした巻の特殊性を見抜いたのが森博達氏です。
 この見立てが周辺の状況と整合するや否やを検証しています。壬申の乱に敗れた倭国王は、八女国連邦(邪馬台国)の首長卑弥呼が葬られた西都原で再起を期します。それが日向です。日本書紀神武天皇が日向(現在の宮崎県)を出立して、宇佐、宗像、安芸を経て吉備国に達したことを書きます。そこで、吉備国の史跡を調べると、なるほど、ここにも倭国のいわば象徴たる「シリウス」方位がひっそりと残されていることがわかりました。とりわけ、備中一宮である「吉備津神社」の地学的配置から推察されるシリウス方位から、その地に何がしかの政治拠点(陣屋)を設営する時期が西暦630年前後であることが判明しました。この年の前後に、「日本書紀」は、大陸「大唐」に使節を派遣し、大唐からは視察官が来日(本来であれば、「来倭」と書くべきところですが)します。

 

 

法螺と戯言 : 隋書と聖徳太子、コロナ対策委後の長時間会食(IT関連、世論工作か?)

23:00 by 瓢箪虻

 

古代史古典を考える(3、古事記景行天皇紀)

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ここに脚注を書きます