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万葉集:日本書紀:古事記:(8):20150206:a

 

黒媛考察の背景としての「ワカタケル」

 藤原不比等倭国史編纂で、史実の時間順序をひっくり返す、あるいは奈良に拠した「大漢国」由来の〔中つ国〕に関する記述を秘匿するなど、夥しい歴史の改竄を重ねています。しかし、そうでありながら、後世の人間が注意深く読み解くなら、史実にたどり着ける「鍵」をいたるところに「意図的」に置き忘れているのです。

(つづく)
 
 
 
 
 
 

黒日売〔くろひめ)とワカタケル王

黒媛の時代、GM穀物

「黒姫」問題
 藤原不比等倭国史は二つの要素から構成されています。一つは、日本書紀に照らすならば巻一~九です。ここでは、大陸史書を適宜暗黙裡に参照しながら史実を時間経過に沿って記述されていました。「いました」と書くのは、その後、政治的思惑からこの記述はその時間順を逆転して、其れを倭国史とするという「想像を超えた」変質をしたからです。これを現ブログ管理人は「当初編纂・閉じた倭国史」と呼びました。何故なら、日本書紀巻一~九と、それに即応した古事記対応部分は時間順を逆転させて読み解く限り、それがまさに邪馬台国から七世紀末までの倭国史をそのまま記載しているからです〔勿論、時間順序を逆転させたことに伴う齟齬を補うべく様々な脚色が事後に加えられている〕。

 時間を逆転させてしまったために「歴史的時点」についての辻褄あわせが、史書として「正史」として求められることになったのです。重大な辻褄あわせの一つが神功皇后以前と以後です。神功皇后を大陸正史「魏志倭人伝」登場する卑弥呼と重ね合わせるという「無理」を通さねばならなかったからです。神功皇后以後の歴史を描写するに当たっては、卑弥呼の時代にまで立ち返って再度構成せねばならなくなったのです。

 言葉を変えれば、西暦三世紀半ばから七世紀半ばまでのおよそ四百年間の歴史を「拵え上げねば」ならなかった。「閉じた倭国史」では、すでに「武王」が「倭建命」として詳述され、七世紀初頭の「多利思比孤(たりしひこ)」〔隋書倭国伝〕も「景行天皇」として既に舞台に上げてしまっている。これらの「人材」を又おおっぴらに登場させることは「大いなる歴史陳述の齟齬」になりかねないのです。幸い、「武王」の父祖である「斎王」、「興王」と言う持ちネタがあった。そこで「興王」については「武王」のお名前と合体させ「ホムタ」王すなわち「応神」天皇として史書に登場させたのです。これではまだ不足と言うわけで、万葉集二歌に登場する人物を「仁徳天皇」に仕立て上げ、まずは、歴史の時間ギヤップの充填を図ったのです。

 しかし、これらの王たちを総動員しても空白の400年間のギャップを埋めることは至難の業です。そこで考え出されたのが「歴史時間の二倍嵩上げ」であったのです。つまり実際には二百年そこそこの経過時間を四百年間に引き延ばす「操作」がなされたのです。その痕跡を示すのが下の表です。
( 表 日本書紀編年に従う歴代天皇の在位期間に見る法則性)
 
 
 

古事記と黒媛(5)、大規模断層の摩擦は小さくなる?(nature誌)

記紀の「黒媛(姫)」
 前回掲載した古事記「国見」説話は藤原不比等のお気に入りです。日本書紀では仁徳四年から十年にかけて六年間もこの説話関連を書き、仁徳天皇の「聖帝」ぶりを強調します。日本書紀の編年に従えばそれはそれは西暦316年~321年と言うことになります。卑弥呼擬せられる神功皇后の退位が西暦269年〔日本書紀編年であり、大陸史書ではない〕ですから、仁徳天皇の即位までには、およそ50年年を待たねばなりません。その50年間の空白を息子の応神天皇で埋めるというのが藤原不比等のシナリオです。

(表:日本書紀編年表、色分けの意味については2014年9月8日記事参照。但しこの表は単に天皇即位を時間順に並べたことを超える重大な事実を示しています。それは日本書紀歴代天皇の在位期間にみる法則性です。たとえばB=b+・・+bが成立していることがわかります。アルファベット大文字の天皇の在位期間はその他の小文字の天皇の在位期間の和に等しい)
 
 
 
 
 
 

古事記と黒媛〔4〕、STAP現象存在か?

黒媛(3)、男脳・女脳(1、New Scientist誌より)

ノーベル医学賞・里見医師の指摘、黒媛の時代

黒部川の「クロ」、上総・下総の「ソウ」

中つ国権力の東方制覇軍事行動野痕跡(相倉集落)

中津国の東国進出の一段階〔富山進出)(1)

 
 
 
 
 
 

大津事件連座三十余名の流刑地、パリ残虐〔東京新聞)

持統天皇即位前後〔3〕,「生まれ変わったら道に・・・」

持統天皇(3)、南極大陸の氷

持統天皇再考(3)
 前回、日本書紀が語る大津皇子の「謀反」は、史実を隠蔽するためのいわば「創作」であることを書きました。「創作」であることは多くの歴史家が認めていますが、それも史実とは異なるのです。実際は、九州に拠した「反藤原勢力」根絶のいわば止(とど)めに近い一撃であったのです。
 日本書紀巻三十朱鳥元年十月紀は以下を書きます:
〔朱鳥と言う元号については先日死去された古田武彦氏が詳しい考察を行っており、私は氏の主張に説得力を感じています。それについては、いずれ触れます。今記事では、又も脱線し、ますます長くなることを避け、ここではその話に立ち入りません〕
既に http://j55.pw/9jVC で、この日本書紀巻三十朱鳥元年十月紀を書いてきました。それほど大幅な改変を必要とは思いませんので、それを再掲しておきます:
%%%%%過去記事再掲
原文:
同十月庚午【三日】賜死皇子大津於訳語田舍。時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。

文意:岩波文庫日本書紀」〔五〕235頁
 
 
 
 
 
 

持統天皇(2), 米国ニュートリノ研究意気込み

持統天皇(2)

 前回、持統天皇を語る象徴的な出来事として以下の四つをあげました:
(1)皇位在位中に34回にわたる吉野を詣でていること;
(2)女帝は幼名、和風諡号のどちらも二つ持っていること;
(3)大和三山をあたかも砦とするかのような藤原京で治世したこと;そして
(4)唐の則天武后と同年に皇位についたこと〔即位〕
 持統天皇を語るには、まずは天武天皇の死去直後〔日本書紀では西暦686年9月9日〕のことから眺めておくことが必要です。僅か三週後に重大な「政変」が発覚したと日本書紀は書きます。
原文:
日本書紀巻三十(天武十五年紀、朱鳥元年〕)9月24日(辛酉)。殯于南庭、即発哀。当是時。大津皇子謀反於皇太子。
 文意:南庭で殯(もがり)を死、哀しみを表明する。まさにこのとき大津皇子は皇太子を廃嫡するべく謀反を企てていた(時系列からはこの謀反の発覚は一週後であるのに、あらかじめここで政変発生をかいています。ブログ管理人注)

日本書紀巻三十・持統天皇称制前紀
原文:
冬十月戊辰朔己巳〔十月二日〕。皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津〔以下原文省略〕。
文意:岩波文庫日本書紀」〔五〕、236頁より
 
 
 
 

天武四年四月の大斎事, 国民連合政府雑感

 
 
 
 
 
 
■誰も知らない素顔の「聖徳太子
お札に採用される率1位の理由として、知名度が高い、功績や肖像をはっきりと示す資料がある、とされていますが、本当に聖徳太子? と疑問視する説も多いです。法隆寺に保管されている肖像画の原本から、別のお寺の名前がみつかったのです。
教科書でもおなじみの聖徳太子肖像画は「唐本御影(とうほんみえい)」が正式名称で、これ自体に「聖徳太子の肖像です」と書かれているわけではなく、法隆寺の僧侶・顕真(けんしん)が記した「聖徳太子伝私記」の記述から唐本御影=聖徳太子と推測されています。法隆寺の僧が記し法隆寺に保管されている資料を疑う必要はないのですが、近年の調査で肖像画に「川原寺」という別の寺名が見つかりました。つまり、ほかの寺で保管されていた肖像画法隆寺にまぎれ込んだとも考えられ、唐本御影と聖徳太子は一致しない説が浮かび上がったのです。
服装に異を唱える説もあり、「この服、飛鳥時代にはなかったんじゃね?」と、もっと後世のはず=別人では、と考える学者も少なくありません。聖徳太子がらみのイベントを時系列順に並べると、
 ・飛鳥時代 … 592~710年
 ・聖徳太子 … 574~622年
 ・聖徳太子伝私記 … 1,238年
で、はっきりした記録のない「推定」であっても、時代が離れすぎています。顕真が聖徳太子の記録を残したのは600年以上もあとの話で、実際に会って顔を確認したわけではないのです。
同時に「別人だ!」という決定的な証拠もなく、最近は「聖徳太子とされる肖像」と表現する書籍もあります。誰なのかはっきりすれば歴史的価値を持つかも知れないので、C一万円札を見つけたら、だいじに保管しておきましょう。
■まとめ
 ・聖徳太子が手に持っている笏(しゃく)は、カンペを貼り付けておく道具
 ・教科書やお札に使われる肖像画は、別人の可能性あり
%%%%%
 
 
 
 
 
 
 
 

天武四年四月十八日麻続王有罪事件

麻続王流罪(7)、南京事件

麻続王流罪(6),TPP新聞記事クリップ

麻続王流懺(5),GPIF運用損

麻続王流懺(4)、安保法制賛成論

「麻續王」流懺(3)、原発事故・政府調査委・事情聴取書

麻続王の流懺地(2)、STAP再現されず

麻續王の流された地(1)

古代「生類憐れみの令」

天武四年四月十日、佐倉余談、安保採決強行か!

松木教授講演、富山から能登島、偏向するNHK

「鬼怒」の由来、「朝生」での孫崎氏発言

富山から能登島〔3〕、論旨明快・山本太郎参議院議員

富山から能登島(2)、NHK,使用済み核燃料

富山から能登島へ、安保法制雑感

「カトリ再考〔7〕」,STAP議論

続カトリ議論(5)、70年問題報告書

「カトリ」を考える(5,神社の起源),盗聴問題

再開「カトリ」議論〔4〕,外国人の安保法制観

(再開)カトリ(3)、ああ又も共産党、米国の日本盗聴

カトリ論(2)

「カトリ」議論再開、大学の軍事研究

南部陽一郎氏死去、キトラ古墳

 

カトリ(3)、水が引き起こす地震(2)

 

 

 最新兵器によって装備された唐・新羅連合軍、おまけにそれに内通する「中」一族のいわば裏切り行為で九州の「倭」政府は必死の抵抗にもかかわらず敗残に追いやられます。大将たる「大海人」〔火(あま)の国の王〕は捕らえられて信州諏訪に幽閉されました(古事記)。
 残る残党は散りじりに故国たる東国に向かいます。そこで再起を競うというわけです。追討する「中」一族はそうした彼らを追い詰め利根川に達します。
 そこで、「中」一族は反抗勢力を利根川の向こうに追いやったことを重大な戦果としたのです。残る課題は、利根川の向こうの勢力の反抗を抑止することです。そのための陣屋が「カトリ」です。まずは、そこで戦果を確認しあった。それが「いわい」(斎)です。
(つづく)
 
 
 
 
 
 

カトリ神宮(2)、室井さんのマスコミ論

カトリ神宮(1)、米国での地震急増事情(1)

「マ、バ、パ」の相互転換

「斎」(7)、猫を愛する鼠〔米国科学誌)

「斎」(6)、東電津波予測

 
 
 
 
 

「斎」〔5〕

 
「斎」〔5〕
 まったく以って恥ずかしい間違いを起こしていたことをまずは白状せねばなりません。[漢字]についての知識の貧困さ故です。斎と斉を取り違えていたのです。6月5日の記事は「斉」であって、「斎」ではありません。「斉」を「斎]と取り違えて議論してきたことになります。こうした軽薄・無知な誤りを自らへの戒めとするべく、これまでの本ブログでの記事を削除または差し替えることはいたしません。ただし、夫々の記事に注として6月19日の記事で重大な訂正を行っていることのみを付記させていただきます。幸いにして、この取り違えから私の議論に方向転換が余儀なくされるということはありません。なぜなら「斉」の意味はどうやっても日本書紀の文脈にはなじみません。そのことを過去記事で以って指摘してきたからです。

 学研漢和大辞典〔藤堂明保監修〕は1599頁で「斎」について以下を書きます:
発音:セ、サイ
意味:祭りの前に酒や肉を絶ち決まったところに篭って心を一つにして準備する。

 何度も本ブログ記事で引用している日本書紀巻二の一節に登場する「是時斎主神号斎之大人」その中の「斎主神」を岩波文庫日本書紀・校注者は「いはい」とカナを振ります。そして更にこれに以下の注を付しています:
「神を済祭〔物忌みをして心身を清めまつること〕するものを斎主と言う。戦争にさしても神祇を斎い祀る。斎主は軍旅の主将たる人があたる」と。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「斎」考察(4),安倍氏とマスコミとの豪華会食に思う

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

斎(3)

 
 何回でも強調しますが、日本書紀の巻〔一〕、「二」は、この書の作成にあってはまさに現代史です。それを、後の政治的思惑から時間をひっくり返して古代史の体裁に仕立て上げているのです。したがって、「神」、「天」同様、「斎」が現代史での出来事を「自らの政治的思惑を押し隠しつつ」、政治的思惑を前に押し出して造語されているのです。
 さてそうして視点からは上記の二つの「斎」(さい)には明瞭な差異〔駄洒落であります〕があります。前者、つまり(I)の「斎」は年来の「宿敵」をついに打倒した後の「斎」事です。と言うことは、之は「勝利宣言」なのでしょうか?どうもそうではないようです。
 そのことの考察を次回書きます。
(つづく)
 
 
 
 

「斎]〔2〕、ポツダム宣言

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「斎」とは?、学者「憲法違反」と

 これまで、「天神」から「天」、「神」を、そして「武甕」から甕を考察してきました。思いもかけず「天」、「神」の考察に字数を費やしてきてしまいました。
上記の件(くだり)から、私が次に着目するのが斎主神です。手元にある「学研大漢和字典藤堂明保編)」は以下を書きます(1559頁):
斎:「ザイ」、「セイ」、「サイ」
 意味:ととのう、ひとしい、きちんとそろう
国名:春秋時代太公望呂尚の封ぜられた国。今の山東省.桓公の台に覇者となる。戦国時代には臣の田氏が国を奪って戦国の七雄となったが前221年秦に滅ぼされた。
王朝名:南北朝時代南朝のひとつ「南斉]。七代24年で梁二ほろぼされた(479-502)。
心身を整えること。物忌み。

斎の熟語の一つとして以下を[字典]は書きます:
斉明:ものいみをして心身を正す。偏見をただしして道理に明らかなこと。

斉明、それは日本書紀では天智・天武天皇の母として登場し、死後に「斉明」なる漢風諡号を付された女帝です。

 なにやら、色々と穿り出せる材料が転がっているように思えます。
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天照大神(「あまてらす」(記紀)と「アメタリシ」〔隋書])

天照大神(7)
 前回、日本書紀巻〔二〕の編纂者の思考過程、具体的には編纂の最高責任者と思われる藤原不比等が「天照大神」を思いつくまでの経緯についての私の想像を書きました。それほど間違っているとは思いません。編纂時〔七世紀末から八世紀初頭〕には倭国王「アメ・タリシ」彦の名前は人々の記憶にあったのでしょう。そこで、新しく創造した神がその王と何がしかの関連があるとの印象を与えるべく「似通った名」の神、つまり「あまてらす」を作り上げた。

 そうした視点で改めてその漢字表記を見るとその見事さにウーンとうなってしまいます。隋書に登場する王の姓「アメ」に大陸政権史書で記される「天子」の「天」を当て、それに「アメ」なる訓をふるのです。更には隋書が書く倭国王の号「テル」です。隋書が書く「タラシ」が古代ペルシア語とすればそれは「明るい」「明るく照らす」と言った意味です。そこで、不比等は「タラシ」に「照」と言う漢字を当て、それを「テラス」と読ませるのです。

 こうして新しく創造された神の名前が定まったのです。その神に神聖をふすべく、古事記で、まずはその出生を「父はイザナギ伊弉諾伊邪那岐、伊耶那岐)」であると語ります:
%%%%%古事記より抜粋
原文:
於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。次洗右御目時。所成神名。月讀命。次洗御鼻時。所成神名。建速須佐之男命。〈 須佐二字以音。 〉

文意:岩波文庫古事記」30頁より
 
 
 
 
 
 

 

天照大神(5)、日本の軍事研究(nature誌)

 
 
 
 
 
 
 
 
 

天照大神(4、火明命)、IAEA・F事故報告書

天照大神(3)
 隋書倭国伝は西暦600年に倭国使節が隋皇帝の面前で「倭国王」の名が「倭王姓阿毎、字多利思比孤」であると陳述したと書きます。古代ペルシア語ではこの王の名前は「火の明り」または「火が照らす」を意味すると書きました。
 不比等が編纂した記紀には、ペルシア語由来を思わせる名前の人物が多く登場します。勿論、それはいわば楽屋裏の話ですから、それについては、当然ながらおくびにも出しません。たとえば古事記はきわめてあっさりと以下を書きます:
%%%%%古事記
原文:
天照大御神。高木神之命以。詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命。今平訖葦原中國之白。故隨言依賜。降坐而知看。 爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答白。僕者將降裝束之間。子生出。名天邇岐志國邇岐志〈 自邇至志以音。 〉天津日高日子番能邇邇藝命。此子應降也。 此御子者。御合高木神之女。萬幡豐秋津師比賣命。生子。天火明命。次日子番能邇邇藝命〈 二柱 〉也。是以隨白之。科詔日子番能邇邇藝命。此豐葦原水穂國者。汝將知國。

文意:〔岩波書店古事記」〔64頁より〕
 
 
 
 

天照大神〔3〕、埼玉北部地震

 
天照大神〔3〕
 前回、前々回に私が書いてきたことの重要ポイントは「カミ」、「アマ」です。これらはあたかも倭国にあっては古来から民には馴染みの深い「表現」であった如くに理解されており、殊更問題とする事柄ではないように思われてきました。ここにズバリと問題意識の光を当てたのが梅原猛氏であったと思っています。それは、人の精神活動〔信仰など〕の根幹にある表現は存外多様ではないという発見でした。この発見は衝撃でした。これに触発されてこれら「カミ」、「アマ」に「神」、「天」の漢字表記を用いることの背景を前回考察したわけです。そしてこの作業が、私の年来の疑問への私自身による回答でもありました。
 
 
 
 
 
 
 

天照大神(2)、ポツダム宣言論議

 
天照大神(2)
 前回記事の最後の書いたことを繰り返します。それは隋書倭国伝の記載記事です:
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」
文意は:
西暦600年のことである。倭王の姓は「アメ」、字は「タリシ」彦。「オオキミ」と号す。

 日本からの使節が、隋皇帝の面前で「倭王の名は 「あめたりし」です」と語ったのです。「アマてらす」と「アメタリシ」、ほぼ同一と思えます。

 前回掲載した表にみるように、天照大神は日本列島のいたるところで祀られる神です。その神の名前が実は大陸正史に登場する倭王の名前であるということの背後を想像することは興味深いことです。
 西暦600年、倭国王は隋皇帝に使節を派遣しています。その使節倭国の王の名、地勢、そして人民の生活などを口頭で陳述しました。それを皇帝の傍に侍る書記官が筆記します。それは使節が語る「音」を「漢字〔巻文字9〕」に置き換えて記載するしかありません。これは三世紀始めに大陸「魏」の視察官が倭国を訪れた際も同様です。このときは、倭国の通訳(訳語=オサ)の語る言葉を漢字で視察官はメモします。当然、倭人である通訳が「国名は数字である」なぞと解説を加えない限り、唯その「音」をしかるべき漢字で表記するしかありません〔2013年8月5日記事〕。かくして 魏の視察官は国名についての真実を知らぬまま帰国しそれが魏志倭人伝の一部として後世に残されることになったのです。
 
 
 
 
 

天照大神(1)

 
 国学院大学・研究者が日本列島の神社の数を祀られる祭神ごとに調べ手、まとめた表がネットに掲載されています。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/saijin.htm
()の数字は上記出典
 
 
 
神社の数は、全国およそ8万8,000社以上
 

https://toyokeizai.net/articles/-/110031

全国に「八幡神社」は4809もある(7817)

 
 
 
天照大伸
 七世紀半ば過ぎから、「中」勢力が武力は言うに及ばず、思想面での全国制覇を目論んだことを書いてきました。思想面で民が屈服するに足る象徴〔権力の象徴〕の確立を模索していたはずです。この制覇は、大陸・唐の武力援助を背景になされていました。その結果、唐時代の主要な思想であった仏教が倭国になだれ込んで来ます。遣唐使を通じて積極的に取り込んだのです。かくして仏教と、藤原不比等らがこしらえ上げる新たな「権威」〔これを「神」と称した事は前回書きました〕が、何がしかの混乱を招いたと思われます。これが「神仏戦争」であるのか、否か。それは後日考察します。いずれにせよ、二つの信仰体系があれば、当然どちらが上位であるのかとの戸惑いが起きます。それが「神仏習合」です。その一つの表れが「権」です。つまり「神」は「仏」の代理人であるとの解釈です。後世の学者は二つの信仰の互いの位置づけを確認することになります。「権力」と言う表現はそもそも絶対的上位にある存在が人間世界からは隔離されているの出、その「代弁」を担っていると考えるのです。漢和字典に従うなら、大陸での権力は「人を強制してしたがわせる力」とあります。どうやら、倭国での「権」への理解は大陸のそれとは異なっているようです。この絶対的存在」を後ろ盾にして何がしかの抑圧・支配をするとの意で「権」は使われてきました。

 さて、七世紀前半に藤原不比等は、列島に溢れるように入り込んできた多様な宗教から新たの宗教体系を構築せねばならなかったのです。なぜなら、木・石・草そして星を崇める現存の宗教を破壊したからです。そうして出来上がったのが天照大神です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「カミ」考察〔2〕、安保法制

「カミ」を考える(2)
 「カミ」と言う言葉の背後に倭国の民の歴史が存在することを明瞭に指摘したのは梅原猛氏であることを前回書きました。

 死後の世界、死後の霊的世界を司(つかさ)どり、現実に生きる人を見守り、時には罰する「なにか」の存在(?)を信ずる。まさに「祖先信仰」です。小さい頃、よく子供たちに語ったことですが
「西洋の神、そしてインドから来た神を信仰する人は無数に居る。とすれば信仰される側である神なり仏なりにはその億を超える人たちを救済せねばならない責任がある。しかし、そんなことは不可能だ。だから信者ではあっても救われぬ人も居るし、救われたと思う人もでる。ところで、両親は自らの子どもの事が何よりも大事だ。あの世にあっても、子のためならなりふり構わず尽力するだろう。祖先は、誰よりも信用できる。これが祖先を敬うということだ」
 と諭し、年一回の墓参ですら億劫がる子供たちを説得したものです。これが倭の民の「産土(うぶすな)』さまです。

 一方、自然界の摂理、内在する法則性に畏敬の念をいだくことから始まり、そこにそうした秩序を「創造した」存在を思い描くのが一神教です。『産土』さんにはそうした世界の構造にまで思いをはせることはありません。産土さんの原意が体現されていたのがアイヌ信仰〔イナウ、くま〕であったと思います。この在来の信仰体系を一神教の影響も受けたと思われる渡来族が排除しなかったことから、七世紀前半までの日本列島は「精神的」には安定していたのだろうと思っています。
 この時代、倭の民の信仰表現がこれまでも々書いてきた「カメ、カムイ、イナ」であったろうと思っています。稲荷(いなり)は「農業の神」なぞと勿体らしい説明がなされていますが、それは産土(うぶすな)様の表現形態であったのです。だからこそ稲荷社は日本で最も多くの社殿があり篤い信仰に支えられています。そして、それは、日本書紀巻二が書く「中」勢力による根絶やし作戦にも生きながらえて今日に至っていると考えています。

 少し本題からずれますが、「カメ、カム、イナ」に関して気づいたことを以下にメモしておきます:
 香々背男〔または古四王〕国の本拠地であったと思われる現在の長沼〔須賀川市〕の東を北に流れ宮城県南部で太平洋に注ぐのは流路長239kmの阿武隈川です。「アブ」は「火」、「クマ」は『産土』さんです。「明るく火に輝く祖先」が行きかう川ということでしょうか。この川に須賀川市内で流れ込むのが隈戸川です。「と」は場所です。「産土さんの居る場所を流れる川」です。また「釈迦堂川」〔しゃかどがわ〕も阿武隈川に流れ込みます。これは「サカ」が転じて「シャカ」になったのでしょう。「サカ族の川」です。小学生の頃、夏は藪を掻き分けこの川にたどり着き水遊びをしたものです。

 この隈戸川に由来するのが記紀に書くところの、九州に跋扈する悪玉「熊襲」族です。学者・研究者は九州に居た部族として「熊襲」、『土蜘蛛』そして「隼人」を上げます。その論拠は『日本書紀』しかありません。そして時には「安曇」族も居たとの前提で議論します。古代倭の言葉では「ト」は「ソ」に転じます。「クマソ」は「クマト」が転じたものです。つまり、記紀で古代倭国史を書き上げる作業に当たって「クマト」を転用した部族をこしらえ挙げたと私は考えています。「つちくも」の「ツチ」は土「ドまたはト」です。クモはクマです。「クマソ」を「(ソ)とクマ」に転じ、その上で「ト」を「〔土)ツチ」に漢字表記したものです。こうして、敵対部族を増やすべく「クマソ」から作り上げられたアディショナルな部族であることは明らかです。したがって、当然この部族も仮想です。「ハヤト」は「クマト」から連想された部族ではなかろうかと創造しています。「熊」を「隼」〔ハヤブサ〕に置き換えて作り上げた部族です。もっとも宮崎県南部から九州にかけてシナイ半島からの渡来族の影を見るように思えます(2013年9月4日記事 http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51861206.html )。エジプトの古代宗教では「ハヤブサ」は神です。もしかして渡来族かなとの想像もありえます。

 話を本筋に戻します。産土さん、または祖先信仰の背後の「カメ」、「いな」を「カミ」に統合し、その「カミ」に[神]なる漢字表記をしたのが倭国史編纂をしてのけた藤原不比等であろうと思っています。学研漢和大字典(藤堂明保編、1990年28刷)によれば神は「自然界の不思議な力、理性ではわからぬ不思議な力」とあり、必ずしもそれは「人の死」とのかかわりはありません。それを人の死後の世界と結びつけたのが不比等であるとも言えます。

 不比等が創出した「神〔カミ〕」が、七世紀に中東から渡来した多様な宗教の中で、「一神教」を奉ずるそれがもっとも有用であると見抜いたのだと思います。その最終的成果が「天照大神」〔あまてらす大神〕です。その大神が誕生する経緯を古事記は冒頭で、およびそれに加筆訂正した日本書紀一巻で書きます。

 ところが、このせっかく作り上げた大神の命名が如何にもにも杜撰であることを読者の皆さんはお気づきでしょうか。なんと隋書倭国伝が書く倭王の名前そのものなのです。
(つづく)
 
 
 
 
 

「カミ」の由来

「カミ」を考える
 前々回〔5月8日付記事〕は「カミ」を考察する前提としてあらためて藤原不比等による倭国史編纂の作業過程を振り返りました。日本書紀巻ニから巻九は「タイムマシーン」での過去への旅であり、巻二こそが編集時点での、日本列島の政治情勢であったと書きました。そしてその支配に必要であったのが「信仰体系」の構築です。それは「カミ」です。

 その由来は東北日本に先住したとされるアイヌ族の信仰に由来すると私は考えています。アイヌ族の出自は南方沖縄とする説もあるようですが、ここでは六~八世紀の日本列島を念頭においています。とりわけ「熊」の神性に大きな敬意を払い、そこからその神性を表象する表現として「カムイ」を自然界の背後に感ずるのです。そしてそれは時に死者の世界、つまり遺体の埋葬するための容器をもカメと呼んだのでしょう。

 その結果、[カム]は時に「カメ」、「カミ」などと音は変化するけれども渡来人の西方への移動とともに日本列島全域に広がったのだろうと思います。

 「クマ」が時に「隈」で標記されると、「薄暗い山陰」つまり神性なる存在の潜む場所として、そこにも死の世界の連想につながります。それが万葉集の十七歌~十八歌です。

 アイヌ族と渡来族の宗教観が混交した「神性なるなにか」を一つの神に具現化したのが中津国を牽引した二人の中です。彼らは、七世紀末の中東から様々な宗教の渡来の中から「一神教」に似た宗教を模倣することを発想し、その中心を「カミ7」と呼称し、[神]と言う漢字表記を用いたのでしょう。それが天照大神です。

(つづく)
 
 
 
 
 
 
 

[神」の由来(1、応神天皇の和風諡号)

応神天皇の和風諡号
 梅原猛氏は多くの著作の中で、日本列島に行きかった人たちの言語は多様であったが、精神的内容を表現する言語は共通であるようだと指摘しています。そのきわめて明瞭な例がが「カミ」であろうと氏は言います。私はこの氏の主張に強い説得力を感じています。そこで、その経緯、つまりどういう経過を辿ったのか?それを想像してみたいと思います。

 ユーラシア大陸西域、つまり西洋中心主義的な大陸観では中近東域です。そこから北方経由〔沿海州およびサハリン〕で渡来したサカ・興一族の現地住民の信仰に対する姿勢です。彼ら自身はゾロアスタ教とその周囲にあった多様な宗教をまとって日本列島にたどり着いたのです。その多様な宗教を支えるものは、天空に一番明るく輝くシリウス星でした。その信仰は列島に残されており、本ブログはまさに物理的証拠をしめしてきました。
 異国の地にあって、原住民の在来の信仰・精神との対応は重要です。地球を股にかけて移動する一族にとっては、その地に住む、ひいてはその地でヘゲモニを獲得するうえで、戦略的にも戦術的にも誠に枢要な事柄が「宗教」だからです。携える武力・武器によって原住民に改宗を迫ることは実はなんの益も齎さないことを、移動する民は十分学習し知悉しているのです。
 この点で、中津国が日本列島制覇の軍事行動で、二人の「中〔中大王、中臣鎌足〕」は渡来族から学んでいなかったということができます。それが七世紀末から300年近くにわたる東国乃反抗となったのです。
 
 
 
 
 

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魏志倭人伝の最後のほうに以下の下りがあります。

(図:魏志倭人伝一部)
「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」
文意はおおむね以下です:
 
 
 
 

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